HISTORICAL PERSON · 1843年没

ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ

フランスの物理学者・数学者。回転座標系に働く慣性力であるコリオリの力を提唱した。エッフェル塔に名を刻まれた72人の一人。

生涯
1843年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ガスパール=ギュスターヴ・コリオリは、1792年5月21日に生まれ、1843年9月19日に没したフランスの物理学者、数学者、天文学者、機械工学者、土木技師である。回転座標系における慣性力の一種であるコリオリの力(転向力)の提唱者として知られ、エッフェル塔に名を刻まれた72人の一人でもある。フランス語での発音は「コリオリス」に近いとされる。

パリで生まれた。プロヴァンスの法服貴族の家柄に連なる父ジャン=バティスト・エルゼアール・ド・コリオリは、国王の護衛隊の大尉で、1780年代初めには、アメリカ独立戦争でロシャンボー軍に従軍した人物である。軍人生活のため金には恵まれず、37歳の誕生日にようやく結婚した。母マリー・ソフィ・ド・マイエは、ロレーヌのナンシー出身の貴族の家の出で、祖父はハンガリー系の将校だった。母は、エジプト領事を務めたブノワ・ド・マイエの遠縁で、彼はダーウィンより1世紀以上前に、地上の生命が海に始まったと示唆した人物であり、一族で唯一の学者であった。ガスパール=ギュスターヴは6人きょうだいの長男で、3人は幼くして亡くなっている。誕生は、立憲君主制がオーストリアとの戦争で脅かされた革命期の混乱の中で、父の護衛隊が解散されたのは、息子の誕生の1週間後だった。父は一度だけ王のために戦ったが、軍人としての経歴は中断された。

1792年の暮れ、一家は革命の混乱を避けて、ナンシーに移った。収入を失った父は、タバコ工場を始め、さらに壁紙の有名な製造業者と組んで事業を広げた。それで暮らし向きがよくなり、息子は市内の寄宿学校に入った。教師はすぐに期待を寄せ、1804年に父の財政が再び不安定になって、教育を打ち切ろうとしたとき、それを止めたという。早くから数学で並外れた才能を示し、14歳でナンシーの高等中学の特別数学クラスで学んだ。1808年にエコール・ポリテクニーク(理工科学校)の入学試験を受けて合格した。家は軍人と商人の家系だったため、科学の道を選んだ理由は諸説ある。伝記作家は、数学への強い好みに加え、革命期に父が受けた数々の困難から、社会的・経済的な安定を築こうとしたのかもしれないとする。国立土木学校でも学んだ。同時代人には、カルノー、フレネル、ナビエ、コーシーがいる。

1816年にエコール・ポリテクニークの講師となり、そこで摩擦や水力学の実験を行った。ピエール・ルイ・デュロンの後任として、同校の研究ディレクターも務めた。1829年にエコール・サントラル・パリの教授となり、1836年には、クロード・ルイ・ナビエの後任として国立土木学校の教授になった。力学における仕事や運動のエネルギーの概念を形成し、回転座標系における回転体の運動方程式を導いた論文を、1831年にアカデミー・デ・シアンスに提出した。この論文から、回転座標系の物体の運動に影響する力として、のちに彼の名にちなんで名づけられたコリオリの力が導かれた。また、ナビエ・ストークス方程式から、コリオリ数と呼ばれる運動量補正係数を導いた。1836年には「一階線型常微分方程式を積分する機械装置」を設計し、これは微分解析を機械化した最初の例として知られる。1843年、51歳でパリで死去した。

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