HISTORICAL PERSON · 1843年没

ザムエル・ハーネマン

ドイツの医師・翻訳家。ホメオパシーと呼ばれる代替医療の体系を作った人物として知られる。マイセンに生まれ、エアランゲン大学で医学博士号を得た。

生涯
1843年没
死亡地
フランス共和国(パリ / former 1st arrondissement of Paris)
出生地
ドイツ連邦共和国(マイセン)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

クリスチアン・フリードリヒ・ザムエル・ハーネマンは、1755年4月10日にドイツ南東部の町マイセンで生まれたとされる医師、翻訳家、著作家で、ホメオパシーと呼ばれる代替医療体系を作った人物として知られる。本人は生涯10日を誕生日として祝ったが、教会の記録には4月11日とあり、正確な日付は今も疑問視されている。マイセンは陶磁器で名高い町で、父クリスチアン・ゴットフリートは陶磁器工場の絵師として働き、その道の名手とされた。父は息子に同じ職を継がせようとしたが、少年は知的な関心の強さから学問の道を選んだ。その探究心を認めた初等教育の教師が父を説得し、名門サンクト・アフラのギムナジウムで教師のもとに住み込んで学んだという。

1775年に卒業すると、ライプチヒ大学で医学を専攻した。当時のライプチヒはザクセンの知的中心で大学も名高かったが、医学部の教育は理論が中心で、患者に接して学ぶ機会は乏しかった。満足できなかったハーネマンは在学中に医学や化学の書物を数多く翻訳して知識を深め、やがてライプチヒを離れてウィーンに移り、実践的な医学を学んだ。ウィーンでは臨床の観察と教育を重んじる新しい医学校に通い、ヨーゼフ・クヴァリン博士の病院回診に半年以上付き添ったという。その後トランシルヴァニア総督の侍医兼司書を務めたとされ、1779年の春にドイツへ戻って、同年8月10日、エアランゲンのフリードリヒ・アレクサンダー大学から医学博士号を授与された。

24歳のとき、ザクセン=アンハルト州の銅鉱山の小さな村ヘットシュテットで医師として働き始めた。父と祖父の生まれた土地だったが、ハーネマンには小さすぎ、9か月後にはデッサウに移った。医業のかたわら化学にも取り組み、その中で薬剤師の娘で17歳のヨハンナ・レオポルディーネ・ヘンリエテと知り合い、1782年11月17日に結婚した。翻訳には自分の注釈を添え続けて、それがドイツで名を知られるきっかけになったという。当時の主要な治療法である瀉血にも疑問を抱き、実在しない物質的な病因を取り除こうとして治療だと勘違いしているものだと厳しく指摘した。

カレンの薬物学書を翻訳していたとき、キナ皮がマラリアに効くのは苦味のためだとする著者の説に注釈で異を唱えた。苦いから効くのではなく、健康な人が飲むとマラリアに似た症状を起こすから効くのだと考え、自ら試したとされる。これが類似の原則の最初の表明で、その後、キナ皮の工場で働く人々の中毒症状が間欠熱に似ていることも確かめた。猩紅熱についても、4人の子のいる家族で、関節炎のためベラドンナを服用していた1人だけが感染を免れた例や、8人の子のいる家族で、発病した3人以外の5人にごく少量のベラドンナを与えたところ誰も発病しなかった例が、この考えを支えたと伝えられる。

1796年にドイツの医学雑誌で最初のホメオパシーに関する論文を発表し、1807年の論文で初めてこの用語を使った。通常の医学はアロパシーと呼んで、その誤りを論じた。この時期は転居を繰り返し、収入は主に翻訳から得ていた。1804年から7年間はトルガウで開業し、のちライプチヒに戻ってから、ケーテンで安定した診療を行って経済的にも落ち着いた。ここで熱心な仲間と多くの薬を試験し、結果を克明に記録して、1811年の『純粋薬物学』の中核となった。1835年、後妻のメラニーとパリに移住し、1843年7月2日にパリで世を去ってペール・ラシェーズ墓地に葬られた。『医術のオルガノン第六版』や『慢性病論 第2版』などが日本語にも訳されている。

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