HISTORICAL PERSON · 紀元前400没

ケルソブレプテス

トラキアのオドリュサイ王コテュス1世の子。前360年に王位を継いだが、当初から対立や王位を争う競争相手に悩まされた。

生涯
紀元前400没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ケルソブレプテスは、トラキアのオドリュサイ王国の王コテュス1世の子である。紀元前360年9月に父が死ぬとその王位を継いだ。名はケルセブレプテスの形でも伝わる。

即位の当初から難題が続いた。父から引き継いだアテナイとの争いと、父に背いた元王室財務官ミルトキュテスの問題に加え、王位を狙うベリサデスとアマドコス2世が現れた。エウボイア出身の冒険家で義兄のカリデモスが有能に仕え続けたものの、ケルソブレプテスはアテナイとも対抗者とも和を結び、紀元前357年までに彼らを自立した支配者と認めた。彼の領地はトンゾス川とヘブロス川の東にあったとみられ、西にアマドコス2世、さらに西のマケドニア国境付近にベリサデスがいたらしい。ケルソネソス半島をめぐる交渉ではカリデモスが前面に立ち、ケルソブレプテスは終始その操り人形にすぎなかったように見える。半島は紀元前357年にアテナイへ譲られたようだが、入植が始まったのは紀元前353年である。譲渡をそれ以前とみるかどうかには、イソクラテスの記述に不確かさが残る。

そのころマケドニアのピリッポス2世が東へ勢力を広げ、ベリサデスの領地も侵した。ベリサデスはほぼ同時期に死に、息子のケトリポリスらが跡を継いだ。ケルソブレプテスとカリデモスはこの子らから相続分を奪い、コテュスの旧領すべてを手に入れようと企て、カリデモスはアテナイ民会から自分に有利な決議を得た。デモステネスは提案者アリストクラテスを告発する弁論を行ったが成功しなかった。だが計画が実る前に、ケトリポリスがパイオニアやイリュリアの王たちと組んでピリッポスに敗れ、マケドニアの影響がこの地方に広がった。

紀元前354年か353年ごろ、ピリッポスはマロネイアでケルソブレプテスの使者アポロニデスと交渉し、テバイの将軍パンメネスも関わるなか、アマドコス2世とアテナイのケルソネソスの拠点への共同攻撃を構想していたらしい。計画は流れ、ケルソブレプテスはアマドコス2世への保護をアテナイが外すことと引き換えにアテナイと同盟し、西のアマドコス2世と東のペリントスやビュザンティオンを攻めた。怒ったピリッポスは両都市の味方として紀元前352年に侵入し、ケルソブレプテスを破った。彼は息子の一人を人質としてペラへ送らねばならなかった。アマドコス2世も姿を消し、後にテレス3世が跡を継いだ。ピリッポスはベリサデスの子らの土地も併合したようで、この子らは争いの調停をピリッポスに求めたトラキア人の兄弟だったかもしれない。

紀元前347年から346年に再びアテナイの支援を求めたが、346年にアテナイが彼を和平に含めようとした提案は退けられた。アテナイの守備隊増強がピリッポスの将軍アンティパトロスの遠征を招いたのかもしれない。ピリッポスはトラキアの沿岸からアテナイの守備隊を追った。紀元前342年から340年のより大規模な遠征の間のどこかで、経緯は不明ながら、テレス3世とケルソブレプテスは排除されるか服属させられたとされる。この時期にピリッポポリスとカビュレがマケドニアの植民市となり、340年にはピリッポスがペリントスとビュザンティオンを包囲していた。デルポイの碑文によれば、紀元前355年にはイオラオス、ポセイドニオス、メディスタス、テレスという四人の息子がいたが、誰かが権限を継いだかは分からない。後の有力なオドリュサイ王セウテス3世は、彼の子か兄弟ではないかと仮説的に論じられ、ケルソブレプテスの副官を務めたセウテスと同一人物とみる見方もある。

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