伝記
アスパシアは、紀元前470年ごろに生まれ、紀元前400年ごろに亡くなったとされる、アテナイで影響力をもったイオニア人の女性である。政治家ペリクレスの愛妾で、二人の間には息子の小ペリクレスがいたが、正式な婚姻関係にあったかどうかは分からない。イオニア地方のミレトスの生まれで、当時これほど高い教養を身につけられたのは裕福な家の者に限られたことから、豊かな家の出だったと考えられる。父の名がアクシオコスであるほかは家族について分かっていることが少なく、戦争捕虜から奴隷になったカリア人だと伝える古代の資料もあるが、現在は誤りとの見方が強い。
アテナイへ移った経緯は不明である。歴史家ビックネルは、アルキビアデスの祖父にあたる人物が陶片追放でミレトスに亡命した際、アクシオコス家の娘と結婚し、その妻と妹のアスパシアを連れて戻ったのではないかと推測している。ペリクレスはこの一家と親密で、それを介して彼女と出会ったのではないかともいう。アテナイでの彼女は、ヘタイラと呼ばれる教養ある自立した女性であり、遊女屋を経営していた可能性を指摘する学者もいるが、論争が続いている。アテナイ人でなく、おそらくその職業のためもあって、結婚で家庭に縛られる当時の女性の宿命を免れ、市民社会にも加われた。美貌以上に、話術や助言の才で注目を集めたという。プルタルコスによれば、彼女の家はアテナイの知の集まる場となり、ソクラテスをはじめ多くの著名な作家や思想家が訪れた。
紀元前440年代前半にペリクレスと愛人関係になり、前445年に彼が先妻と離婚した後は同棲を始めた。だが二人の影響力は非難の的にもなった。紀元前440年のサモス戦争では、ミレトスの出身である彼女のためにペリクレスが戦いを決めたと人々が考えたとプルタルコスは伝える。ペロポネソス戦争が始まる前には、ペリクレスの周囲への攻撃の一環として、彼女は不敬の罪で喜劇詩人ヘルミッポスに訴えられたが、ペリクレスが珍しく感情をあらわにして弁護し、無罪になったという。ただ、この裁判は喜劇の一場面が実話と誤解されたか、後から作られた話だと考える研究者もいる。喜劇詩人アリストパネスは、戦争の原因を彼女に帰す言葉さえ書いた。
紀元前429年にアテナイでペストが流行し、ペリクレスは姉妹と、先妻との嫡出の息子二人を失って気弱になり、彼女はそばで支えた。彼の死の直前には、彼自身が発案した市民権法の例外として、小ペリクレスがアテナイ市民となることが許された。ペリクレス本人も同年秋に病死した。プルタルコスが引くアイスキネス・ソクラティクスの対話篇によれば、彼の死後は将軍リシクレスと暮らし、子をもうけたが、リシクレスは前428年に戦死したとされる。その後の消息は不明で、没年は、ソクラテスが処刑される前399年より前と考えられている。
プラトンは『メネクセノス』で彼女とペリクレスの関係を皮肉まじりに描き、『饗宴』のディオティマは彼女がモデルだとする説もある。息子の小ペリクレスは後に将軍に選ばれたが、アルギヌサイの海戦の後に処刑された。そのとき彼女が存命だったかどうかも分からない。当時の女性についてはほとんど資料がなく、学者の中には「アスパシアのことが分かれば人間のことが半分分かったも同然だ」と言う者もいるほど、古代ギリシアの女性を考える上で重要な存在である。
同じ年に亡くなった人物
- Ecphantus the Pythagorean (紀元前400)
- アルカメネス (彫刻家) (紀元前 400年(推定))
- エウリピデス (紀元前400年代没)
- アルガイオス2世 (紀元前 400年(推定))
- ソポクレス (紀元前400年代没)
同じ地域に関係する人物
- Isaeus (紀元前339)
- Markos Vamvakaris (1972年没)
- クラティノス (紀元前425)
- Callimachus (紀元前489)
- ニコラオス・ゲオルガンタス (1958年没)