伝記
カロライン・ハーシェルは、1750年3月16日にドイツのハノーファーで、第8子・四女として生まれた天文学者である。父イーザークは庭師の息子から身を起こして軍楽隊の音楽家となった人物で、自然哲学や数学、天文学に関心があり、幼いカロラインを連れて星空を見に行った。彼女が生まれて初めて彗星を見たのもこのときである。5歳で天然痘にかかって顔に痘痕が残り、その後の発疹チフスで発育が止まって非常に小柄になった。母アンナと長兄ヤーコプは彼女をメイドのように扱い、母は家事と裁縫以外の技術を身につけることを望まなかった。父が読み書きを教えるよう主張したため基本は学んだが、家事に追われて勉強の時間はなく、家庭教師として自立するために必要なフランス語の学習も母に認められなかった。1767年に父が亡くなると、22歳で無給の使用人として家族に仕える覚悟をした。
転機は1771年、イングランドで音楽家として成功していた兄ウィリアムから、温泉町バースで一緒に暮らそうと手紙で誘われたことである。母は使用人の給金をウィリアムが払うという条件でこれを認め、カロラインは1772年に兄とともに旅立った。英語がわからず社交的でもなかったため当初は孤独だったが、英語を学び、ウィリアムの指導で歌声を磨き、ハープシコードも独習した。1777年にはヘンデルの「ユダス・マカベウス」で独唱者に選ばれ、1778年には「メサイア」で首席歌手を務めて、5年ほどでイングランド音楽界の頂点に立った。
この間、ウィリアムは天文学に熱中し、1774年に移った大きな家で望遠鏡を作り始めた。カロラインは歌の練習のかたわら数学を学び、兄を手伝った。のちに回想録で、兄のためにしたのは「よく仕込まれた子犬」がするようなこと、つまり命じられたことをしただけだと、やや苦々しく記している。1781年3月13日にウィリアムが天王星を発見して著名な天文学者となり、1782年に国王ジョージ3世から国王付天文官に任命されると、兄妹はダチェットに移った。カロラインは毎晩兄のそばで星図や天体カタログを調べ、兄の観測を記録し、翌朝にはメモを整理して星雲の位置を計算した。その後20年間で兄妹は2400の新たな天体を観測し、位置を算出している。自らも小型望遠鏡で空を探り、1783年に3つの星雲を、1786年から1797年にかけて8つの彗星を発見し、彗星を発見した最初の女性となった。1786年に兄が結婚すると自分の家を建て、国王に願い出て助手としての俸給が認められ、年50ポンドをイギリスで科学的な仕事に公的な報酬を得た最初の女性として受け取った。1797年にはフラムスティードの星図にない561個の恒星を含む星表を発表した。フランスの天文学者ラランドと手紙を交わし、ウィンザー城の食事会にもたびたび招かれて、王室の子どもたちに天文学研究を説明した。
1822年にウィリアムが没するまで研究を手伝い、その後ハノーファーに戻った。1828年には兄が1800年以降に発見した2500の星雲の座標を計算してカタログを完成させ、同年に王立天文学会のゴールドメダルを受けた。1835年にはメアリー・サマヴィルとともに同学会初の女性会員に選ばれ、1838年にはアイルランド王立アカデミーの名誉会員となり、1846年にはプロイセン王から科学金賞を授けられた。1848年1月9日、ハノーファーで97年の生涯を閉じた。発見した彗星のひとつは、ハーシェル・リゴレー彗星として名を残している。小惑星ルクレティアは、彼女の功績を記念してセカンド・ネームから命名された。
同じ年に亡くなった人物
- Steen Steensen Blicher (1848年没)
- ルートヴィヒ2世 (ヘッセン大公) (1848年没)
- トマス・コール (1848年没)
- エミリー・ブロンテ (1848年没)
- アフドチア・イストミーナ (1848年没)
同じ地域に関係する人物
- フィリップ2世 (シャウムブルク=リッペ伯) (1787年没)
- オットー・フォン・ミュンヒハウゼン (植物学者) (1774年没)
- アンネ・フランク (1945年没)
- ヴィルヘルム5世 (ヘッセン=カッセル方伯) (1637年没)
- アウグスト・フィック (1916年没)