伝記
ヴィッサリオン・グリゴーリエヴィッチ・ベリンスキーは、1811年6月11日に現在のフィンランドにあるスヴェヤボルク(ヘルシンキの一部)で、退役海軍軍医の子として生まれたロシアの文芸批評家である。のちにペンザ県のチェンバルの町やペンザで暮らし、ギムナジウムで1825年から1829年まで学んだ。父は地方の医師で、裕福な貴族ではなかったため、彼はおもに独学で教養を積んだ。1829年から1832年までモスクワ大学の学生となったが、国費給付の学生だった在学中に、農奴制を攻撃する戯曲『ドミトリー・カリーニン』を書いて、「能力が薄弱で不熱心」という名目で放校された。
その後、1834年の『文学的空想』によって批評活動を始め、スタンケーヴィチ、ゲルツェン、バクーニンらと親交を結んだ。当時のニコライ1世の抑圧的な治世のもとで、書かれた言葉は数少ない自由の場であり、政治的な小冊子より検閲が軽い文芸批評を主な舞台に選んだという。1839年にペテルブルクへ移ると、雑誌『祖国の記録』を中心に論文や時評、書評を書き続け、1840年に「現代の英雄論」、1843年から46年にかけて「アレクサンドル・プーシキンの作品」を発表した。詩人ネクラーソフとも仕事をともにした。1841年ごろからは自らを社会主義者と呼ぶようになった。
その批評は、感情の熱と道徳的な真剣さが一体になっていた。「考えること、感じること、理解すること、苦しむことは、私にとって同じことだ」と好んで語ったという。人間の尊厳と個人の権利を重んじ、専制と農奴制を厳しく批判したほか、貧困や売春、官僚の冷たさ、弱い者への残酷さも指弾した。文学に最も求めたのは「真実」で、現実の生活を深く描くことと、人間の尊厳への配慮という正しい道徳的な立場の両方だった。純粋芸術は否定し、芸術は特殊な社会関係を背景とすると考えて、18世紀以来のロシアの作家や詩人を評価した。最初の国民詩人としてプーシキンの意義を確定し、それを継いだレールモントフを高く評価した。ゴーゴリを「現実生活の詩人」とし、ゴンチャロフやコリツォーフ、ツルゲーネフ、そして『貧しき人々』を書いたドストエフスキーを発見して熱烈に紹介した。
1846年に『祖国の記録』を辞し、ネクラーソフらの雑誌『同時代人』に参加して、ペテルブルクの新たな文学の中心をつくった。1847年には『ゴーゴリへの手紙』を書いた。これは、ゴーゴリがロシア正教と農奴制を擁護したことを責めた書簡で、情熱と真剣さ、不正への怒りが入り交じった文体の代表とされる。ドストエフスキーはこの手紙を集まりで朗読し、1849年に逮捕されて死刑を宣告されたが、のちに流刑に減刑された。肺患が悪化してこの年にドイツへ転地し、最後の論文『1847年のロシア文学の概観』を口述した後、まもなくペテルブルクで没した。1848年6月7日のことである。彼の志と調子は、1860年代のロシアの左翼の書き手たちに長く影響を残し、チェルヌイシェフスキーやドブロリューボフに受け継がれた。プレハーノフやレーニンらからは、ゲルツェンと並ぶロシア革命の先達として位置づけられ、「ロシアのレッシング」という評価もある。
同じ年に亡くなった人物
- Wilhelm Ferdinand Erichson (1848年没)
- Mah Seref Han (1848年没)
- カロリーネ・アマーリエ・フォン・ヘッセン=カッセル (1848年没)
- ペッレグリーノ・ロッシ (1848年没)
- Gabriel Valencia (1848年没)
同じ地域に関係する人物
- イワン・クラムスコイ (1887年没)
- ミハイル・ソモフ (1973年没)
- イヴァン・キレーエフスキー (1856年没)
- ドメニコ・トレジーニ (1734年没)
- アレクサンドル・フリードマン (1925年没)