伝記
ベルナルト・ボルツァーノは、1781年10月5日にプラハで生まれた哲学者・数学者・論理学者である。父ベルナルト・ポンペイウスはイタリア出身でプラハに移り住んだ商人、母マリア・ツェツィーリアはプラハのドイツ語を話す商人の家の出で、両親はともに敬虔なカトリック信者だった。十二人いたきょうだいのうち、成人したのは二人だけだったという。10歳でプラハのピアリスト会のギムナジウムに入り、1791年から1796年まで通った。
1796年にプラハ大学に入り、数学、哲学、物理学を学んだ。1800年からは神学も学び、1804年にカトリックの司祭となる。同じ1804年には、初等幾何学のいくつかの対象についての考察で学位を得た。ライプニッツやクリスティアン・ヴォルフの哲学に関心を寄せ、カントの研究にも打ち込んだが、このころからカントの物自体の概念を考えるうちに、反カントの立場を明確にしていったとされる。1805年にはプラハ大学に新設された宗教哲学の講座に任じられ、宗教だけでなく哲学の講義でも人気を集め、1818年には哲学部長に選ばれた。
しかし、軍国主義が社会にもたらす浪費や戦争の不要を説き、教育・社会・経済の制度の全面的な改革を訴えるその主張は、オーストリア当局には自由主義的に過ぎた。講義内容が啓蒙主義的だとして宮廷に危険視され、1819年12月24日に撤回を拒んで教授職を解かれたとされる。一方で、これを1820年のこととし、チェコ独立運動への加担を理由とする説もあり、年や理由については一致しない。いずれにせよ、宗教に関する講演や著作の発表は禁じられた。1821年には母も亡くなっている。わずかな恩給で暮らしが苦しくなるなか、1823年にプラハの商人の夫人アンナ・ホフマンと出会い、1842年に夫人が亡くなるまで経済的にも精神的にも支えられて、一私人として哲学と数学の研究に専念できた。のちに田舎へ移り、1842年にプラハへ戻っている。
発表を制限されたため、著作は自費で出すか、東欧の目立たない雑誌に載せるほかなかった。数学では、直観的な時間や運動の観念を持ち込まず、解析学に厳密さを与えようとし、1810年、1816年、1817年の三つの主要な著作を著した。極限を厳密に定義し、実数の最大下界の性質を初めて認識したほか、代数学の基本定理と中間値の定理について、初めて純粋に解析的な証明を与えた。今日ボルツァーノ・ワイエルシュトラスの定理として知られる成果も残している。哲学では、1837年に全四巻の主著『知識学』を著し、命題自体、真理自体、表象自体といった概念をもとに、諸学の論理的基礎を築こうとした。ほかに『宗教学教科書』や、魂の不死を擁護する『アタナシア』がある。サン・シモン主義的な共産主義国家を構想したともされる。
1848年12月18日、風邪をこじらせて体調が急速に悪化し、67歳で亡くなった。遺著『無限の逆説』は、のちに実無限の概念の発展に寄与し、パースやカントール、デーデキントら後の論理学者たちに高く評価された。生前はほとんど評価されなかったが、失われていた論文を1881年にシュトルツが再発見して刊行し、20世紀初頭にはブレンターノやフッサールが成果を高く評価した。
同じ年に亡くなった人物
- ロベルト・ブルーム (1848年没)
- トマス・コール (1848年没)
- カロライン・ハーシェル (1848年没)
- アマーリエ・フォン・ヴュルテンベルク (1848年没)
- サラ・フラー・アダムス (1848年没)
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- ミロスラヴ・フィリップ (2009年没)
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- ベドジフ・フロズニー (1952年没)
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