伝記
マフディーは、アッバース朝の第3代カリフ(在位775年〜785年)である。個人名はムハンマドで、ムハンマド・アル=マフディーとも呼ばれる。父は第2代カリフのマンスール、母はウンム・ムーサー・アルワーである。744年または745年に生まれ、生地はクーファともヒュマイマ(現在のヨルダン)ともいわれる。
「マフディー」という呼び名には由来がある。760年、アリー家一門の長老アブドゥッラー・アル=マフドとその息子ムハンマド・アン=ナフス・アッ=ザキーヤが叛乱を起こした際、アブドゥッラーは息子を救世主マフディーと呼んで決起した。これに対抗してカリフのマンスールが、自らの息子ムハンマドにこのあだ名をつけ、のちに即位名となったという。若いころには、15歳でホラーサーンの叛乱の鎮圧に送られ、タバリスターンの統治者らの叛乱も破って、名目上の従属にとどまっていたタバリスターンをアッバース朝の支配下に置いたと伝えられる。762年にはレイを拠点に東方の総督を務め、この地でのちにハーディーとハールーン・アッラシードの母となるハイズラーンと出会ったともいう。770年ごろにはハッジの指導者に任じられた。
775年、父がメッカへの巡礼の途上で亡くなると、遺言で後継者に指名されていたマフディーは臣従の誓い「バイア」を受けて即位した。継承は、のちの時代の血なまぐさい代替わりに比べれば秩序だったものと評されている。即位後は政治犯の釈放、メッカとメディナの聖地の拡張や装飾、巡礼者のための泉や宿の整備を行い、郵便制度を広げ、諜報を強め、都市を要塞化し、司法官の任命も増やした。バルマク家は宰相として仕え、いっそう大きな権限を得た。一方で最も信頼した宰相ヤアクーブ・ブン・ダーウードを投獄している。また即位後ただちに、息子のムーサー(のちのハーディー)とハールーンの兄弟を後継者と認めるよう廷臣たちに誓わせたと伝えられる。
治世は反抗勢力との闘いに追われた。777年にはホラーサーンのメルヴで、片目だったと伝えられるハーシム・アル=ムカンナアが輪廻の教えを説いて支持を集め、叛乱を起こした。マニ教徒などのいわゆるザンダカ主義者への対応も続き、783年には公式の審問を設けて、異端の疑いをかけられた者の処刑に至った。781年2月7日には東ローマ帝国領へ派兵し、遠征軍の司令には息子のハールーンを送った。ハールーンらによるアナトリアへの侵攻は、東ローマに重い年貢を払わせるに至ったとされる。
文化面では、ネストリウス派総主教ティモテオス1世に依頼して、アリストテレスの『トピカ』など論理学の古典をギリシア語原典やシリア語訳からアラビア語へ翻訳させた。ザンダカ主義者の勢力を理論の面でも圧倒しようとして、その研究やギリシア哲学の研究を行わせたのであり、こうした中でイスラーム思弁神学の土台が築かれていったとされる。音楽や詩を好んで庇護し、息子のイブラーヒームと娘のウライヤはともに詩人・音楽家として知られた。後代の歴史家によれば敬虔な人物で、一日五回の礼拝にはそのつど人々とともに出席したという。病人や身体障害者のための病院も各地に建てた。785年8月4日に死去し、不審な状況での死だったともいわれる。次代は遺言どおり長男のムーサー・アル=ハーディーが継いだ。妃のハイズラーンとの間には、775〜776年にハーディー、ハールーン、娘のバヌーカが生まれたという。
同じ年に亡くなった人物
- ナーフィイ・マダニー (785年没)
- 大伴家持 (785年没)
- エデッサのテオフィロス (785年)
- 顔真卿 (785年没)
同じ地域に関係する人物
- ドリュペティス (紀元前323年没)
- アンティオコス3世 (セレウコス朝) (紀元前187年没)
- Abdallah Ibn-Ahmad Nasafi (1310年没)
- カラノス (バラモン僧) (紀元前323年没)
- マニ (預言者) (277年没)