伝記
キュネウルフは、七王国時代のウェセックスの王である。在位は757年から786年で、古英語では「ウェストサクソンの王キュネウルフ」と刻まれる。マーシアが覇権を握っていた時代に王となり、治世の大半をマーシアの混乱に助けられて領土を保ったが、779年にマーシア王オッファに敗れた。最期は、廃位された前王の兄弟に討たれるという劇的なものであった。
王位に就いた経緯は、前王シゲベルトを退けた結果とされる。ウィテナゲモートの賛同を得て、ほとんどの有力者の支持のもとにシゲベルトを廃したともいわれ、前王はハンプシャーで副王として一時とどまることを許されたと伝えられる。一方で、前王を弑逆して王位に就いたとする説明もある。即位の直後、マーシア王エゼルバルドの勅令にキュネウルフの名が見えることから、エゼルバルドの宗主権のもとにあったとも考えられた。ただし、エゼルバルドの側がキュネウルフの王位を認めたと見るほうが有力とされる。いずれにせよ、そのエゼルバルドが暗殺されると、マーシアは王位を主張する者たちが争う短い混乱の時期に入った。
キュネウルフはこの機会をとらえてウェセックスの独立を確かなものにし、758年にマーシアからバークシャーを奪った。ウェールズのブリトン人やコーンウォールの人々とも、たびたび戦ったとされる。教会には恩恵を施す一方で、修道院などが所有を主張していた土地を取り上げたこともあった。やがてマーシアではオッファが力を回復する。779年、キュネウルフはベンジングトンの戦いでオッファに敗れ、バークシャーを、おそらくはロンドンをも奪い返された。しかし、この敗北のあとにキュネウルフがオッファに従属したことを示す証拠は見つかっていない。後に王となったベオルートリッチがオッファに従属したのとは対照的である。
最期については、アングロサクソン年代記が異例なほど長く記している。在位はおよそ31年に及んでいた。786年(年代記には755年の項にも記される)、キュネウルフは、前王の兄弟にあたる王族キュネヘルドを追放しようとしていた。これを知ったキュネヘルドは、王が愛人のもとを訪れ、少数の供しか連れていないと聞きつけ、手勢を集めて夜のうちに家を取り囲んだ。王は戸口に出て必死に戦い、キュネヘルドの姿を認めると飛びかかって深手を負わせたが、自らもキュネヘルドの兵に討たれたという。キュネヘルドはその地の門を閉ざして立てこもった。翌朝、ケルドルマンのオスリックや王の側近セインのウィフェルスらが攻め寄せると、キュネヘルドは金や土地を約束して自分を王にするよう説き、彼らの親族の多くが自分に味方すると誓っていることも指摘した。しかし彼らは、主君にまさる親族はなく、その殺害者には決して従わないと答え、戦ってキュネヘルドとその一党を討ち、ケルドルマンの名付け子ひとりだけが傷を負って生き残った。キュネウルフはウィンチェスターに葬られ、後継の王にはベオルートリッチが選ばれた。キュネヘルドはアクスミンスターに葬られたという。家臣たちは、主君を殺した者には従わないという言葉どおりに行動したことになる。
殺害の場所は、ウィルトシャーのマートンとも、サリーのマートンともいわれる。現代の歴史家は、ウィンチェスターの近くに同名の地があるために誤解されたのだろうとしている。年代記のこの記述は繰り返し語られた説話の要素を含み、正確な記録とは言えないと見る歴史家もいる。
同じ年に亡くなった人物
- ルルス (786年没)
- ハーディー (アッバース朝カリフ) (786年没)
- アル=ハリール・イブン・アフマド・アル=ファラーヒディー (786年)
- Abo of Tiflis (786年)
- ヴィリバルト (786年)
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- テリー・プラチェット (2015年没)
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