HISTORICAL PERSON · 1849年没

ユリウシュ・スウォヴァツキ

ポーランドのロマン派詩人・劇作家。ミツキェヴィチらとポーランド・ロマン主義の三大詩人に数えられ、戯曲『リラ・ヴェネーダ』などを書いた。

生涯
1849年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
ウクライナ(クレミャニェチ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ユリウシュ・スウォヴァツキは、1809年9月4日、ロシア帝国領となっていた旧ポーランド南東部のクシェミェニェツ(現在のウクライナのクレメネツ)に生まれたロマン派の詩人、劇作家である。アダム・ミツキェヴィチ、ジグムント・クラシンスキとともに「ポーランド・ロマン主義の三大詩人」に数えられる。父エウゼビウシュは修辞学や詩学を教える文学教授で、クシェミェニェツ高等学校に勤め、1811年からはヴィリニュス大学で教えた。しかし父は1814年に亡くなり、母サロメアに育てられた。母は1818年に医学教授アウグスト・ベキュと再婚し、ヴィリニュスで文学サロンを開いた。少年はそこで多様な影響を受け、1822年、13歳のときに詩人ミツキェヴィチと知り合った。ミツキェヴィチは2年後の1824年に、秘密結社への関与でロシア当局に逮捕され追放された。

1825年から1828年までヴィリニュス大学で法学を学び、現存する最初期の詩はこの頃のものである。1829年にワルシャワへ移って政府の財務関係の職に就き、翌年の初め、雑誌に掲載した小説で文筆家としてデビューした。1830年に十一月蜂起が起こると愛国的で宗教色のある詩を発表し、『自由への頌歌』などが評判となった。1831年1月には蜂起した国民政府の外交局に入って写字を務め、3月にドレスデンへ使者として派遣され、7月にはロンドンとパリの代表に文書を届ける役を志願した。パリで蜂起の敗北を知ったとされ、多くの同胞と同じく亡命者として生きることになった。

1832年には最初の詩集と二つの戯曲を出したが、占領下の同胞の心情を捉えていないとして評判は芳しくなかった。ミツキェヴィチが『ジャディ』第3部で継父ベキュを悪役に描いたことに腹を立て、母への手紙には決闘を挑みたいほどだったと書いた。以後は彼を最大の競争相手とみなしたという。パリで評価されず落胆してスイスへ移ると、フランス当局は帰国を認めなかった。1833年から1836年はスイスで過ごし、1833年の第3巻の詩集は愛国色が強く、祖国でより高く評価された。戯曲『コルディアン』もこの年に書かれている。1834年にはポーランド人のヴォジンスキ家とアルプスを旅し、恋愛詩『スイスにて』が生まれた。

1836年にローマへ赴いてクラシンスキと親交を深め、ナポリを経て東方へ旅立ち、ギリシャ、エジプト、パレスチナ、シリアを巡って1837年までにパリへ戻った。旅の記録として『ナポリから聖地への旅』を書いている。その後は戯曲『リラ・ヴェネーダ』(1839年)、叙事詩『ベニョフスキ』(1841年)などを発表した。1842年にはメシア主義者トヴィヤンスキの「神を考える会」に加わったが、翌年には離れた。

1848年、結核を患いながらも蜂起に加わろうとヴィエルコポルスカ地方へ赴いたが、結局参加せず、ヴロツワフで母と再会した。1849年4月3日、パリで死去し、絶筆となった抒情詩は『精霊王』(1845年)である。遺体はモンマルトル墓地に葬られたが、1927年にクラクフのヴァヴェル大聖堂に移され、隣にはミツキェヴィチが眠っている。日本では工藤正廣訳の『ユリウシュ・スウォヴァツキ詩抄』などが出ている。

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