HISTORICAL PERSON · 1849年没

ムハンマド・アリー

オスマン帝国領エジプトの総督で、ムハンマド・アリー朝の初代。富国強兵策を進め、エジプトの事実上の独立を達成し、近代エジプトの父と呼ばれる。

生涯
1849年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県 / アレクサンドリア)
出生地
—
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県)

伝記

ムハンマド・アリーは、オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の初代ワーリーである。在位は1805年5月17日から1848年3月2日までで、メフメト・アリーとも呼ばれる。生まれはバルカン半島マケドニア地方東部の港町カヴァラで、1769年生まれと自称し、「アレクサンダーの故郷で、ナポレオンと同じ年に生まれた」と語るのを好んだと言われる。民族的な出自はアルバニア系、トルコ系、イラン系、クルド系などの説があるが、アルバニア系とする見解が主流である。父は街道警備の非正規部隊の司令官で、幼いころに父を失うと市長官のもとに預けられ、18歳で市長官の親戚の女性と結婚して父の職を継いだ。前半生は伝説的で、本人がこの時期を語ることはなく、後の出世に釣り合わない若いころの身分の低さを飾るための捏造が疑われる言い伝えもある。

1798年、フランスがエジプトへ侵攻すると、オスマン帝国はカヴァラ市に対しアルバニア人非正規部隊300人の派遣を命じた。この部隊の副隊長として戦功を挙げたムハンマド・アリーは、のちに6000人の部隊全体の副司令官に昇進した。18世紀のエジプトではマムルークが政治の実権を握っており、1803年にイギリス軍が撤退すると、オスマン帝国の総督や正規軍、アルバニア人部隊、親英派と反英派のマムルークが権力闘争を繰り広げた。この最中の1803年5月に部隊の司令官ターヘル・パシャが暗殺され、後任に就いたムハンマド・アリーは権力闘争に割って入った。マムルークと協力してオスマン帝国任命の総督を無力化し、次にマムルークの派閥抗争を利用してカイロ周辺から排除した。さらに、自らが推した総督との対立ではカイロ市民の不満を自身への支持に結びつけ、1805年5月にウラマーから新総督に推挙された。オスマン帝国政府も追認せざるを得なかった。

就任当初の支配地域はカイロ周辺とナイル川デルタの一部に限られていた。1807年にはイギリス軍がエジプトに上陸を試みたが、ムハンマド・アリーはこれを撃退し、最終的には協定で撤退させた。以後、交渉と協調が対英政策の基調となった。1811年、オスマン帝国は第一次サウード王国への攻撃を要請したが、彼はこれをマムルークの反乱を煽り自分を追い落とす計略と察し、3月11日に次男の司令官任命式を名目に有力なマムルーク400人あまりを居城に誘い込んで殺害した。1812年までにエジプト全土からマムルークの影響力を排除し、実質的に独立王朝が成立したとされる。

アラビア遠征は長男イブラーヒームが引き継ぎ、1818年に首都ダルイーヤを陥落させて終結した。スーダン遠征の成果は払った犠牲に見合わず、三男イスマイルは殺害された。フランスを模範に近代的な軍隊を目指し、1822年に農民への徴兵制を導入して陸海軍を整えた。1822年にはオスマン帝国の要請でギリシャ独立戦争に参戦し、イブラーヒームの指揮でモレア地方を制圧したが、イギリスなど列強の干渉を受けた。のちにオスマン帝国からシリアを奪うまでに勢力を伸ばしたが、これを危険視したイギリスの介入で富国強兵策は頓挫した。それでも事実上の独立を達成して近代エジプトの基礎を築き、1849年8月2日に没した。「近代エジプトの父」「大王」と呼ばれる。

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