伝記
アレクサンドリアのディオニュシオスは、アレクサンドリア教会の第14代教皇・総主教である。248年12月28日から264年3月22日に没するまでその座にあった。エウセビオスやカイサレイアのバシレイオスらから「大」と呼ばれた。カトリック百科事典は、キプリアヌスに次ぐ3世紀屈指の司教とし、偉大な神学者というより偉大な行政家であったと評している。生涯の事績の多くは大量の書簡から知られるが、完全な形で残るのは1通のみで、ほかはエウセビオスの著作に抜粋されている。
190年ごろ、裕福な多神教徒の家に生まれた。書物を読み、多神教の伝統を丹念に学んだが、比較的若くしてキリスト教に改宗した。その契機は、異端を研究して論駁せよと命じる神の幻を見たことだという。改宗後はアレクサンドリアの教理学校に入り、オリゲネスと教皇ヘラクラスに学んだ。231年にヘラクラスの後を継いで学校の長となり、教会の司祭にもなった。248年にヘラクラスの後継として教皇の座に就いた。後世、ミルトンは『アレオパギティカ』で、異端の書を読んで反論を学んだと語り、神の幻に「手に入る書物は何でも読め」と告げられたと記したフィレモン宛ての書簡に触れている。
249年、アレクサンドリアでは多神教徒の暴徒による大迫害が起こり、信仰を捨てなかった数百人のキリスト教徒が襲われ、石で打たれ、焼かれ、斬られた。ディオニュシオスはこの迫害とその後の内乱を生き延びた。250年1月に皇帝デキウスが迫害の勅令を出すと、恐れて形ばかりの犠牲を捧げる者や偽の証明書を求める者が出た。拒んだ者は嘲りを受け、見つかれば拷問や処刑に遭い、砂漠へ逃れた多くが飢えや渇き、盗賊や野獣で命を落とした。長官サビヌスはディオニュシオス自身も追い、見つけ次第殺すよう刺客を送った。彼は3日間身を隠し、勅令の4日目の夜に召使いらと脱出し、兵士の一団と出くわしながらも2人の従者と逃れて、迫害が終わる翌年までリビアの砂漠に住んだ。
251年、ローマでノウァティアヌスが、迫害で信仰を捨てた者との聖餐を拒む厳格な立場から分離教会を立てると、ディオニュシオスは教皇コルネリウスを支持した。臨終の際に求める者には、かつて背教した者にも聖餐を拒んではならないと命じた。252年にキプリアヌスの疫病がアレクサンドリアで流行すると、他の聖職者とともに病人や死にゆく人々を助けた。その後、ウァレリアヌスのもとで投獄され、さらに追放された。ガッリエヌスが帝位に就くと投獄者を釈放し、追放者を呼び戻して、ディオニュシオスら司教に書簡で身の安全と教会再開の自由を保証した。教皇ステファヌスとキプリアヌスの論争では、ステファヌスの立場を支持しつつ、アフリカの諸教会の自律も認めた。バシレイオスは教皇ダマスス1世への書簡で、ディオニュシオスがカイサレイアの教会に援助を送ったことを記しており、この書簡は後にピウス9世の回勅でも引かれた。
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