HISTORICAL PERSON · 1849年没

マリア・エッジワース

アングロ・アイリッシュの小説家で、児童文学の写実主義の先駆者の一人。19世紀初頭の英国とアイルランドで最も読まれた作家の一人で、処女作『ラックレント城』は地主階級の没落を描いた。

生涯
1849年没
死亡地
アイルランド(ロングフォード県 / Edgeworthstown)
出生地
イギリス連邦(オックスフォードシャー)
出典
世界地図
アイルランド(ロングフォード県)

伝記

マリア・エッジワースは、1768年1月1日に生まれ、1849年5月22日に没したアングロ・アイリッシュの小説家である。大人向けと子供向けの両方の作品を書き、子供向け文学における最初期の写実的な書き手の一人であり、ヨーロッパにおける小説の発展にとっても重要な人物とされる。領地経営や政治、教育について批判的な見方を持ち、ウォルター・スコットや経済学者リカードら著名な書き手と文通した。1800年代の最初の10年間には、ブリテンとアイルランドで最も広く読まれた小説家の一人であった。

生まれはオックスフォードシャーのブラック・ボートンで、リチャード・ラヴェル・エッジワースと最初の妻アンナ・マリアの第二子である。父は4度結婚し、成人した子は22人にのぼった。幼少期は母方の家族とイングランドのハートフォードシャーで過ごしたが、5歳のときに母を亡くした。1773年に父が二番目の妻ホノーラ・スネイドと結婚すると、父とともにアイルランドのロングフォード州にある父の領地エッジワースタウンへ移った。ホノーラが病に伏した1775年からはダービーの学校に入り、1780年にホノーラが亡くなって父がその妹エリザベスと再婚すると、ロンドンの学校に移った。1781年に目の感染症で視力を失いかけたことをきっかけに、父の関心は娘に向けられた。14歳で家に戻った彼女は多くの年下のきょうだいの世話を引き受け、父から法律、アイルランドの経済と政治、科学、文学を教わった。ルナー・ソサエティの会員ら学識ある人々との生涯にわたる文通も、この頃に始まった。

マリアは父の助手として、一家が1777年から1782年まで不在の間に荒れていたエッジワースタウンの領地経営を手伝い、生涯をそこで暮らして執筆した。父との共同作業は生涯続き、彼女はそのうちでより有能で機敏な頭脳の持ち主だったという。領地の親族や使用人、小作人を含め、彼女はアイルランドの日常の細部を観察して記録した。この経験は、のちのアイルランドを描いた小説に生かされた。名前が今日もっとも知られている処女作『ラックレント城』では、自身は英国国教会の信者でありながら、アイルランドのカトリック教徒の語り手を通して、自らと同じ地主階級の一家の放蕩と没落を描いた。

1798年に父がフランシス・ボーフォートと結婚すると、フランシスの父ダニエル・ボーフォートの発案で、イングランドや大陸へ旅する話が持ち上がった。マリアより1歳年下のフランシスは、生涯の腹心となった。一家は1799年にロンドンへ、1802年にはイングランド中部を巡り、アミアンの和約の間にブリュッセルを経てフランスを訪れた。ここでスウェーデンの廷臣から求婚を受けたが、継母は、マリアが彼を深く愛し、その別れから立ち直るのに時間がかかったと伝えている。1803年に帰国して執筆に戻り、『流行社会物語』『不在地主』『オーモンド』などを書いた。ジェーン・オースティンやスコットと並び称される人気作家で、当初は二人より多く稼ぎ、収入できょうだいを助けた。

1813年のロンドン訪問では文壇の寵児として迎えられ、好きになれなかったバイロン卿や化学者ハンフリー・デービーと会った。1814年に『ウェイヴァリー』が出ると、スコットは彼女の影響に感謝し、二人は長く文通を続けた。1823年にスコットの邸宅アボッツフォードを訪ね、翌年にはスコットがエッジワースタウンを訪れた。晩年の彼女は、リカードとの議論を経て、領地経営の改善と農業への科学の応用が食料の生産を高め、価格を下げると考えるようになった。

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