伝記
ウィリアム・ワーズワース(ワーズワス)は、1770年4月7日、イングランド北西部、湖水地方の北西はずれにあるコッカーマスに5人兄弟の第2子として生まれたロマン派の詩人である。父は土地の貴族に仕える事務弁護士で、母は近郊のペンリスで衣料品店を営む商人の娘だった。1778年に母が亡くなると、父は兄弟とともに彼を湖水地方の中心部ホークスヘッドのグラマー・スクールへ送り、その父も1783年に世を去った。幼くして両親を失い、生家も貴族に返して帰る家庭のない少年時代を送ったが、湖水地方の自然とそこに暮らす人々は心の慰めとなり、教師にも恵まれて、このころから英語の詩に親しみ、自らも創作を始めていたという。
1787年にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・コレッジに進み、成績や褒章にはあまり関心を持たなかったものの、卒業までこぎつけた。学業より詩と自然に心を寄せ、休暇ごとに湖水地方へ帰った。1790年の夏には友人と、フランスからスイス・アルプスへ主に徒歩で旅をし、厳しいアルプスの自然と革命下のフランス人の活気に強い印象を受けた。この経験は後の『序曲』に描かれている。卒業後は定職に就かず、1791年の終わりに再びフランスへ渡った。革命軍将校ミッシェル・ボーピュイから革命思想を教えられて革命を支持するようになったが、九月虐殺の惨状を見て疑問も抱いた。この滞在中に年上の女性アネット・ヴァロンと恋に落ち、彼女は1792年末に娘を産んだが、彼はその前に経済的理由などから一人で帰国した。翌年のルイ16世の処刑と英仏開戦で、フランスに戻ることも結婚もできなくなった。1793年に最初の二作品を出したが評価は得られず、精神的危機に陥った。ロンドンではゴドウィンら急進派とも接した。
1795年、ブリストルでサミュエル・テイラー・コールリッジと出会い、のちに親友となった。妹ドロシーと合流し、1797年にはコールリッジの住むサマーセットの近くに移って、妹との同居と親交のなかで危機から立ち直った。1798年にコールリッジとの共著『抒情民謡集』を出版し、1800年の第2版に付した長い序文は英国ロマン主義のマニフェストともいわれる。1798年から翌年にかけてドイツを旅し、ゴスラーに滞在して、後に『序曲』と題される自伝的長詩を書き始め、『ルーシー詩篇』などの詩も書いた。1799年末には湖水地方グラスミアのタウン・エンド(後のダブ・コテージ)に居を構え、翌年に近くへ移ったコールリッジ、サウジーとともに「湖水詩人」と呼ばれた。1802年にアミアンの和約でフランスを訪れ、アネットと娘に会って養育費の話をつけ、帰国後の秋に幼なじみのメアリ・ハチンスンと結婚した。ドロシーは生涯、兄夫婦の家族と同居した。1807年に『二巻詩集』を出し、グラスミアでは二人の子を失い、コールリッジとも1810年ごろから疎遠になった。
1813年、ロンズデール伯爵から印紙販売官の職を与えられ、終生の地となるライダル・マウントに移って経済的に安定した。この職は体制側の仕事で、このころには上流階級との交際が増え、考え方も保守化していた。1814年には生前最大の作品となる『逍遥』が出たが、当初は批評界に認められず、シェリーら第二世代の詩人は、体制派となった彼を堕落したと批判した。それでも1830年代以降、『逍遥』はよく読まれ、ワーズワースは大いに敬われる詩人となった。1843年、73歳で桂冠詩人となり、1850年4月23日に80歳で亡くなった。自伝的長詩『序曲』は没後の1850年に出版された。
同じ年に亡くなった人物
- ホセ・デ・サン=マルティン (1850年没)
- Felix Arvers (1850年没)
- ジュゼッペ・ジュスティ (1850年没)
- ウィリアム・プラウト (1850年没)
- Manuel de la Pena y Pena (1850年没)
同じ地域に関係する人物
- デイヴィッド1世 (スコットランド王) (1153年没)
- ドナルド・ワトソン (2005年没)
- ドロシー・ワーズワース (1855年没)
- ジョージ・ロムニー (画家) (1802年没)
- ロバート・サウジー (1843年没)