伝記
フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フレーベルは、1782年4月21日にテューリンゲンのシュヴァルツブルク=ルドルシュタット公国にあるオーバーヴァイスバッハで生まれたドイツの教育者である。ペスタロッチの弟子であり、幼児教育の祖とされる。幼児の中に宿る神性を信じ、子供には独自のニーズと能力があるという認識に基づいて、近代教育の基礎を築いた。
5人の兄姉のいる末子で、父は正統派ルーテル派の教区牧師であった。母は生後9ヶ月のときに亡くなり、のちの彼の人生に大きな影響を与えたとされる。父の再婚で4歳のとき継母を持ったが、継母に実子が生まれると疎まれ、孤独な幼少年期を過ごした。1792年に叔父に引き取られ、エアフルト近郊の町で小学校に通い、自然を愛して15歳で農業・林業の見習いとなった。1799年に見習いを辞めてイエナで数学と植物学を学び、土地測量士や農場の秘書として働き、農場主の図書室でさまざまな分野の書物に親しんだ。自伝によれば、1805年にスイスでペスタロッチに会って教えを受けた。
同じ1805年にフランクフルトの模範学校で教育者としての経歴を始め、翌年からは貴族家の3人の息子の住み込み教師となり、1808年から1810年までは子供たちとともにスイスのペスタロッチの研究所に住んだ。その手法を発展させ、人間の成長における幼少期の重要性を見出したという。その後ベルリンの学校の教師となったが、解放戦争が起こると1813年と1814年にリュッツォウ義勇軍に加わった。戦後はベルリン大学の鉱物学博物館で助手となり、結晶の研究を通じて、自然と人間が互いを説明し合っているという考えに至ったと書き残している。
1816年にはグリースハイムに私立学校を設立し、翌年カイルハウに移した。1818年にはベルリンでヴィルヘルミーネ・ホフマイスターと結婚したが、子供はなく、彼女は1839年に亡くなり、1851年にルイーズ・レヴィンと再婚した。1826年に主著『人間の教育』を出版し、のちにスイスでも教育機関や孤児院を運営した。1836年にドイツへ戻ると幼児教育に専念し、バート・ブランケンブルクで教育遊具の製造を始め、1840年に「一般ドイツ幼稚園」を設立して「幼稚園」という言葉を作った。設立にはミッデンドルフとランゲタールが加わり、二人は最も忠実な同僚であった。また積み木などの教育玩具である恩物を考案し、「遊び」を子供の生活の典型的な形態として位置づけ、その教育的価値を確立した。最初の幼稚園では、歌、ダンス、ガーデニング、恩物を使った自主的な遊びが行われた。1840年には、英国人教育者エミリー・ロナルズがその方法を最初に研究し、彼は幼稚園の概念を英国へ移すよう勧めた。マリエンタールの狩猟小屋では、女性を幼稚園教諭として養成する仕事も始めた。
1851年8月、プロイセン政府は幼稚園を「無神論的で扇動的」であるとして禁止した。甥カール・フレーベルの著作との取り違えが理由だった可能性も指摘される。これに落胆したフレーベルは、1852年6月21日にマリエンタールで亡くなり、墓はシュヴァイナの墓地にある。禁止で教師たちはドイツから離散し、その思想は他国へ広まった。弟子マルガレーテ・シュルツは1856年にウィスコンシン州に米国初の幼稚園を設立した。
同じ年に亡くなった人物
- マーガレット・テイラー (1852年没)
- アンドリュー・ジャクソン・ダウニング (1852年没)
- ジェームズ・フランシス・スティーブンス (1852年没)
- ジョン・ロイド・スティーヴンズ (1852年没)
- ジェームス・プラディエ (1852年没)
同じ地域に関係する人物
- エリーザベト・ゾフィア・フォン・ザクセン=アルテンブルク (1680年没)
- ヘルマン・アーベントロート (1956年没)
- オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1758-1822) (1822年没)
- ヨハン・ヴィルヘルム (ザクセン=ヴァイマル公) (1573年没)
- ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (1832年没)