伝記
パーヴェル・ステパーノヴィチ・ナヒーモフは、ロシア帝国海軍の提督である。1802年、スモレンスク県ヴャゼムスキー郡のゴロドク村に、地主で二等少佐を務めた軍人ステパンの子として、貴族の家に生まれた。十一人きょうだいの七番目で、幼いうちに亡くなった兄弟姉妹が六人いたという。四人の兄弟もみな海軍の軍人となった。1817年にサンクトペテルブルクの海軍幼年学校に入り、この年に初めて航海に出た。1818年2月に試験に合格して士官候補生となり、バルト艦隊の艦隊乗組員に配属された。
当初の経験はバルト海の航海と、白海のアルハンゲリスクからクロンシュタットへ向かう長い航海に限られていた。転機は1822年3月で、探検家ミハイル・ラザレフが指揮する世界一周遠征に加わるフリゲート「クレーイセル」へ配属されたのである。1825年まで続いた航海のなかで中尉に昇進し、帰国後には初の叙勲としてウラジーミル勲章四等を受けた。1826年秋には七十四門の戦列艦「アゾフ」に配属され、アルハンゲリスクからクロンシュタットへの処女航海に就いた。翌1827年夏、アゾフはハイデン少将が率いる艦隊の旗艦として地中海へ向かい、英仏とともにオスマン帝国に対する遠征に加わった。出発の直前には皇帝ニコライ1世が艦を訪れ、戦闘になれば乗組員はロシア人らしく敵に当たるよう命じたという。
1827年10月20日のナヴァリノの海戦では、ラザレフ艦長の下でアゾフが最も際立った働きを示し、英仏露の連合艦隊はオスマン艦隊をほぼ全滅させた。砲術での優れた働きにより、ナヒーモフは鹵獲した艦の艦長に昇進し、連合国の政府からも叙勲された。その後はコルベット「ナヴァリン」を指揮してダーダネルス海峡の封鎖にも加わった。1829年にクロンシュタットへ帰還するとフリゲート「パルラーダ」を指揮し、1834年には黒海艦隊に戻って戦列艦「シリストリヤ」の艦長となった。さらに1845年に旅団長、1852年に師団長に就き、1854年に黒海艦隊司令長官となった。若い頃には水兵への「残忍さ」を批判されたこともあったが、指揮官としての評判は損なわれなかったという。
クリミア戦争のさなかの1853年、ナヒーモフはシノープでオスマン艦隊を破った。開戦前、黒海のロシア艦隊は二つの群に分かれ、ナヒーモフは黒海の東部を、もう一方はコルニーロフが受け持った。増援を求めたナヒーモフのもとには11月27日にノヴォシリスキー提督の艦隊が合流し、戦列艦六隻、フリゲート二隻、汽船三隻を擁して、ペクサン砲などの火力でオスマン側を上回った。艦隊は湾内にいたオスマン・パシャ提督の艦隊に降伏を求めたが拒まれ、戦闘が始まった。序盤はオスマン艦も健闘したものの、数時間のうちに炎上して形勢は決まり、脱出したフリゲート「タイフ」だけがイスタンブールに戻って勝報を伝えたとされる。
1855年2月から、ナヒーモフは英仏とオスマン帝国の軍に包囲されたセヴァストーポリ要塞の防衛を指揮した。同年7月、狙撃兵に頭部を撃たれて死去した。没日は7月12日とも、負傷の数日後ともいわれる。死後はロシアの英雄とされ、とりわけソ連時代にはスターリンの下で顕彰が進んだ。1944年には名を冠した勲章(一等・二等)とナヒーモフ・メダルが制定され、ロシア連邦でも維持されている。1947年には生涯を描いたソ連映画『アドミラル・ナヒーモフ』が作られ、1959年にはセヴァストーポリ市に記念碑が建てられた。同名の軍艦も複数ある。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン=バティスト・イザベイ (1855年没)
- ジョン・ゴリー (1855年没)
- アンリ・ドルーイ (1855年没)
- ジャック=シャルル・デュポン・ド・ルール (1855年没)
- Louis Antoine Francois Baillon (1855年没)
同じ地域に関係する人物
- ポリーナ・スースロワ (1918年没)
- ヴラジーミル・コルニーロフ (1854年没)
- フィリップ・オクチャーブリスキー (1969年没)
- フィッツロイ・サマセット (初代ラグラン男爵) (1855年没)
- マルティヌス1世 (ローマ教皇) (655年没)