伝記
アンセルムは、ランゴバルド王国北方のフォルム・ユリイ(フリウーリ)の公となり、のちに修道院長として知られた人物である。イタリア語ではアンセルモ・ディ・ノナントラとも呼ばれ、ノナントラ修道院の創設者であり初代の修道院長である。生年は723年とされ、ランゴバルドの貴族の出で、公ヴェクタリの子孫であるともいわれる。姉妹のギゼルトルーダはランゴバルド王アイストゥルフの妃となった。
750年ごろ、姉妹の婿であるアイストゥルフが王位に就くと、アンセルムはその後継としてフリウーリ公となった。在位は749年または750年から751年ごろまでとされる。しかし彼は世俗の経歴の頂点にありながら政治の世界を離れ、信仰の道に入ることを望んだという。公領を去って、モデナ地方のファナーノにある修道院で修道士となり、まもなくその近くに修道院を建てて、752年にその初代修道院長になったとも伝えられる。ファナーノの地はアイストゥルフから与えられたものだった。
その2年後、アンセルムはモデナの北東にあるノナントラに、もうひとつの修道院を建てた。この修道院にはアイストゥルフが寄進を行ったとされる。やがてアンセルムはローマに赴いた。義兄のアイストゥルフに同行した旅であったともいう。教皇ステファヌスは彼に修道士の衣を授け、司牧の杖を与えて、ノナントラの修道院長に任じた。このとき教皇は聖シルウェステルの聖遺物を託し、ノナントラを「聖シルウェステルの修道院」と呼ぶ特権も認めたとされる。アンセルムは、修道士たちが運営する数多くの救貧院や医療所を設け、貧しい人々や病人がそこで世話を受けられるようにした。
12世紀に編まれたノナントラ修道院長の歴史によれば、756年にアイストゥルフの後を継いでランゴバルド王となったデシデリウスは、自分の庇護する者をノナントラの院長にするため、アンセルムを追放した。王は教皇庁と対立していたともいわれる。アンセルムはベネディクト会のモンテ・カッシーノ修道院に身を寄せ、そこで7年を過ごしたと語られる。774年にデシデリウスがフランク王カール大帝に敗れて捕らえられると、アンセルムはノナントラに戻ったという。ただし、彼の死後百年から二百年を経て書かれた伝記『ヴィタ・アンセルミ』には、この放浪への言及がない。ノナントラ修道院は、1083年まで皇帝の所有する修道院となり、院長の選出にはたびたび皇帝の干渉があった。
アンセルムは半世紀にわたってノナントラの修道院長を務め、805年に同地で亡くなったとされる。没年を803年とする説もある。ノナントラでは今も守護聖人として敬われ、祝日は3月3日である。ラテン教会では聖人とされている。
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