HISTORICAL PERSON · 805年没

シャイバーニー

ハナフィー学派の法学者。国際法にあたるスィヤルの理論的考察を行い『イスラームのグロティウス』と称された。

生涯
805年没
死亡地
イラン共和国(テヘラン州 / レイ)
出生地
イラク共和国(ワースィト)
出典
世界地図
イラン共和国(テヘラン州)

伝記

シャイバーニー(アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・アルハサン・アルシャイバーニー)は、イスラーム教スンナ派ハナフィー学派の法学者である。生年は749年または750年、没年は805年とされる。ハナフィー学派の三大学祖のひとりに数えられ、イスラームのグロティウスとも称される。

イラクに生まれたとされ、生地はワースィトともいわれる。まもなく、アブー・ハニーファの故郷であるクーファに移ってそこで育った。父は兵士であったが、本人は軍人よりも学問の道に関心を寄せたという。クーファでアブー・ハニーファに師事したが、767年、18歳のときにアブー・ハニーファが亡くなり、教えを受けたのは2年ほどにとどまった。その後はアブー・ハニーファの高弟で兄弟子にあたるアブー・ユースフのもとで学んだ。スフヤーン・アッサウリーやアウザーイーも師に挙げられる。のちにメディナへ赴き、マーリク学派の祖マーリク・イブン・アナスのもとで2、3年学んだともいわれるが、その時期は明らかでない。20歳ごろの770年ごろには、クーファで教えていた。

やがてバグダードに移って学問を続けた。その名声は高く、カリフのハールーン・アッラシードから、都ラッカの裁判官(カーディー)に任じられた。これは796年以後のことと考えられている。803年にこの職を解かれてバグダードに戻り、再び教育に携わった。この時期にもっとも広い影響を及ぼしたといわれる。弟子にはシャーフィイー学派の創始者シャーフィイーがおり、最も著名な門人とされる。のちにシャーフィイーは師と見解を異にして反論の書を著したが、師への深い敬意は変わらなかったという。さらにホラーサーンに滞在した際には多くの弟子を育てた。これはハナフィー学派が中央アジア方面へ広まる機縁となった。

ハールーン・アッラシードはシャイバーニーを再び司法の職に就け、ホラーサーンへ向かう際にも同行させた。シャイバーニーは同地で裁判官を務め、805年にレイで世を去った。この日、同じ場所で、クーファ出身の高名な言語学者・文法学者のキサーイーも亡くなった。ハールーン・アッラシードは、法学と文法学を並べて葬ったと語ったと伝えられる。

著作では、ハナフィー派法学の実定法的な側面を完成させたとされる。『大集成』『小集成』『補記』のほか、『メディナの学徒への反証の書』などがある。ハナフィー派の特色とされるヒヤル、すなわち合法的な行為を重ねることで、本来は不法とされうる行為を行う方法についても論著を残した。また、イスラーム国際法にあたるスィヤルについて『大スィヤル』『小スィヤル』を著し、これが「イスラームのグロティウス」という異称のもとになった。8世紀末に書かれたこの分野の書物には、のちにより高度な第二の論考が続き、ほかの法学者たちもこれに続いたとされる。スィヤルは、ムスリムの国家と非ムスリムの国家との関係、戦争、条約、外交を扱う法の分野である。戦闘の正当な理由や標的、戦い方を論じ、直接の軍事的脅威となる者だけが殺傷の対象になるとして、女性、子ども、老人、障害者、精神を病む者の殺害を禁じた。捕虜は戦闘員かどうかで区別された。非戦闘員を誤って殺しかねない投石機のような兵器も、戦闘員を狙い、非戦闘員を殺さぬよう努めるなら使ってよいと述べた。これらの見解はハナフィー学派で影響力を持ったが、シャーフィイー派とは食い違う点もあった。

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