伝記
坂上田村麻呂は、平安時代の公卿であり武官である。天平宝字2年(758年)、坂上苅田麻呂の次男、または三男として生まれたとされる。生年は、死去した年から逆算したものである。坂上氏は後漢の霊帝の曽孫にあたる阿智王を祖とすると称する渡来系の東漢氏と同族で、代々弓馬の道を世職とし、宮廷の守護にあたって武門の誉れ高い家柄であった。曽祖父の大国は右衛士大尉、祖父の犬養は聖武天皇に寵愛されて左衛士督に昇り、父の苅田麻呂は武芸によって公卿待遇を与えられた。ただし、この頃の坂上氏はなお地方的な豪族にすぎず、三代はその没落を防ぐことに全力を尽くして、武人を輩出する「将種」の家風を築いたという。
宝亀11年(780年)、23歳で近衛府の将監として武官から出仕した。翌年に桓武天皇が即位し、延暦4年(785年)に安殿親王が立太子すると、28歳で正六位上から従五位下へ昇った。外位の五位を通らずに昇進したことは、坂上氏が地方豪族から中央貴族へ転身していたことを示すとされる。この年には苅田麻呂の上表により、一族は忌寸姓から宿禰姓に改まり、嫡流は大宿禰と称した。延暦元年(782年)の氷上川継の乱では父が連座して解官されたが、わずか4か月後に右衛士督へ復職している。延暦5年(786年)に父が亡くなると一年間喪に服し、のちに近衛将監へ復帰して、近衛少将、越後介、越後守などを歴任した。
桓武朝の第二次蝦夷征討では、延暦10年(791年)に東海道諸国へ派遣されて兵士の簡閲などにあたり、大伴弟麻呂が征東大使に任じられると百済王俊哲らとともに征東副使となった。実戦経験のない田村麻呂が登用された理由は不明である。延暦13年(794年)に副将軍として蝦夷を征したが、この戦いの経過はほとんど伝わらない。同年に新京へ遷都があり、平安京と名付けられた。新京到着の報告によれば、官軍の戦果は斬首457級、捕虜150人、獲馬85疋、焼落75処であった。弟麻呂は翌年に凱旋し、征夷の功による叙位で、田村麻呂は従四位下に進んだとみられる。
延暦15年(796年)に陸奥出羽按察使兼陸奥守となり、同年に鎮守将軍も兼ね、延暦16年(797年)に征夷大将軍に任じられた。こうして東北地方の行政を指揮する官職をすべて合わせ持った。延暦20年(801年)、44歳で節刀を賜り、4万の軍勢と軍監5人、軍曹32人を率いて平安京から出征した。征討は「討伏」という表現で成功を報じられ、同年10月に凱旋して節刀を返上し、従三位に叙された。翌年には造陸奥国胆沢城使として陸奥国へ派遣され、胆沢城の造営にあたった。同じ頃、田村麻呂を含む8人が一括して度者(僧侶)1人を賜っており、その理由は不明である。浪人4000人をその周辺に移住させる勅も出されている。延暦21年4月、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮らが500余人を率いて降伏したことが、造営中の田村麻呂から朝廷へ報告された。
その後は四代の天皇に仕え、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧したとされ、二度にわたり征夷大将軍を務めた。811年に没し、嵯峨天皇の勅命により、立ったまま柩に納められて平安京の東に向かって埋葬されたと伝わる。のちに「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられ、武神、軍神として信仰された。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、多くの田村語りや坂上田村麻呂伝説も生まれた。