HISTORICAL PERSON · 811年没

ニケフォロス1世

東ローマ帝国の皇帝(在位802〜811年)。財務官僚として802年のクーデターの中心となり、エイレーネーを廃して即位しニケフォロス朝を開いた。減税を撤廃して財政再建に努め、ブルガリア遠征で戦死した。

生涯
811年没
死亡地
ブルガリア共和国(シュメン州 / プリスカ)
出生地
トルコ共和国(ピシディア)
出典
世界地図
ブルガリア共和国(シュメン州)

伝記

ニケフォロス1世は、東ローマ帝国の皇帝で、在位は802年10月31日から811年である。生年は760年ごろとも750年ともされ、はっきりしない。出自についても、同時代の史書や総主教ニケフォロスはイサウリアのセレウキア出身のギリシア人としているが、タバリーらイスラーム側の史書には、古代末期にアラビア半島北部にあったガッサン朝の王家の子孫とする伝承がある。ただし信頼できる同時代の史料はなく、真偽は不明である。皇后エイレーネーのもとでは税務長官(財務大臣)を務めていた。

802年、フランク王カール大帝が、東西の帝国を結びつけて皇帝が2人いる問題を解決しようと、エイレーネーに結婚交渉を持ちかけた。エイレーネーはこれに前向きだったが、一部の文武官僚は不安を抱いた。近衛部隊長官ニケタス・トリフィリオスやエイレーネーの親族レオン・サランタペコスらが、ニケフォロスを中心に陰謀を企て、フランクの使節がまだ首都にいるうちに決行した。彼らは近衛兵に、廷臣アエティオスがエイレーネーを退位させて自分の兄弟を帝位に就けようとしていると偽って告げ、兵はニケフォロス側についた。翌日エイレーネーは幽閉され、ニケフォロスは10月31日にハギア・ソフィア大聖堂で総主教タラシオスから戴冠を受けた。エイレーネーははじめプリンキポ島に、のちにレスボス島に流された。

即位後は財務官僚としての経験を生かし、エイレーネー期に傾いた財政の立て直しに取り組んだ。エイレーネー時代の減税の撤廃や徴税の厳格化、財産調査による増税、貧民の徴兵などを進め、小アジアの貧しい兵や農民をトラキア、マケドニア、ギリシア南部などへ移住させた。バルカン半島にはテマ・テッサロニキ、テマ・ペロポネソス、テマ・デュラキオンを新設した。年代記作者テオファネスは、エイレーネーの支持者であったこともあって、これらを「重大な悪政」として詳しく非難している。帝位の継承を固めるため、803年のクリスマスには息子スタウラキオスを共同皇帝に立てた。同年にはバルダネス・トゥルコスが反乱を起こしたがすぐに降伏し、808年にも貴族アルサベルの陰謀が起きた。806年に総主教タラシオスが没すると、修道院長テオドロスらの反発を受けながら俗人のニケフォロスを後任に据え、809年の教会会議で皇帝は教会法に縛られないと確認した。こうした課税と教会への統制は、聖職者との溝を深めた。

対外的には、800年のクリスマスにカール大帝が受けた「ローマ皇帝」の称号をめぐる交渉が続き、803年に協定が結ばれたものの、最終的な解決には至らなかった。809年には反乱を起こしたヴェネツィアへ艦隊を送った。東方ではアッバース朝への遠征がハールーン・アッ=ラシードの反撃で敗れ、貢納金を払う条件で和約を結んでいる。一方、北ではクルム・ハーンのもとで第一次ブルガリア帝国が勢力を広げていた。811年、皇帝は大軍を率いてブルガリアに侵入して首都プリスカを制圧・焼き打ちし、和平を求めたクルムの申し出を退けた。しかし7月26日、バルカン山脈で待ち伏せを受けて戦死し、遺体も見つからなかった。ローマ皇帝の戦死は、ウァレンス以来のことであった。後代の史書には、その頭蓋骨が金箔を貼られてクルムの髑髏杯にされたとの話があるが、これは後付けの伝説とされる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物