伝記
ロバート・オウエンは、1771年5月14日、北ウェールズの町で小手工業者の子として生まれたイギリスの実業家・社会改革家で、「空想的社会主義者」と呼ばれる。人間の活動は環境によって決まるとする環境決定論を唱え、環境を改善すれば優れた性格が形成されると考えて先進的な教育運動を展開した。協同組合の基礎をつくり、労働組合運動の先駆けとなり、初めて本格的な労働者保護を唱えたともされる。父は馬具や金物を扱う職人で、駅逓長や教区の会計役も務めて地域で信頼されていた。母のアンは地元の富農の娘で、品行方正な美人と伝わる。彼は7人兄弟の6番目の子で、うち2人は幼くして亡くなった。
幼いころから読書を好み、『ロビンソン・クルーソー』やクックの航海記、偉人の伝記を読みあさった。8歳ごろにメソジストの姉妹と交わったのを機に宗教書を読み、宗派間の対立を知って宗教に疑問を抱き、その否定的な立場を生涯持ち続けたという。地元では「小牧師」の異名があった。5歳のとき登校に遅れそうになって熱いオートミールをあわてて飲み込み、腹の中に火傷を負ったことが、細かく観察し深く考える習慣のもとになったと、後年の『自叙伝』で回想している。母に一度だけ叩かれた記憶から、罰は罰する側にも罰せられる側にも有害だと考えるようになったともいう。当時の子供は10歳で働き始めるのが普通で、彼もニュータウンの隣家の店で手伝いを始めた。教育は読み書き算術ができる程度の初歩的なもので、その後の知的活動はすべて独学によった。10歳でロンドンへ奉公に出ることを両親に伝えて承諾を得、父の伝手でリンカンシャーの高級リンネル商の店に住み込みで働き、のちにロンドンの商会を経て、マンチェスターの呉服卸商サタフィールド商店で繊維業界の知識を身につけた。
1789年、サタフィールド商店で働いていた当時、職人の青年ジョーンズに紡績機の購入と共同事業を持ちかけられた。兄ウィリアムから100ポンドを借りてミュール紡績機を買い、40人の職人を雇って紡績に着手し、のちに独立して単身で経営を担った。会社は繁盛し、平均週6ポンドの利益を出したという。やがて工員が見つけた広告をきっかけに、ランカシャー随一の蒸気機関を備えた紡績工場の支配人に抜擢された。1792年、500人の工員を雇う近代化工場の支配人に着任し、極細糸の製造に成功し、品質に優れたアメリカ綿をいち早く輸入した。厳格な規律を定める一方で労働条件を大きく改善し、高賃金と高待遇で工員の心をつかんで生産力を高めた。1793年には名士の仲間入りを果たし、23歳でマンチェスターの学術団体に加わって、化学者ドルトン、詩人コールリッジらと議論を重ね、綿に関する論文も発表した。公衆衛生学者パーシヴァル博士による児童労働の告発とも触れ、工場立法の必要性と環境による性格形成の考えを形づくっていった。
1800年以降はスコットランドのニュー・ラナークの紡績工場を共同で経営し、2000人を雇う「綿業王」となった。労働者の生活と子弟の教育に力を注ぎ、工場に幼稚園や共済店舗を設けた。1817年に協同主義社会の創設を提案し、1825年から1827年にかけて私財を投じてアメリカ・インディアナ州に協同村を建設したが、失敗に終わった。帰国後の1839年から1842年にクイーンウッドでも試みたがやはり失敗し、財産を失った。晩年は精神更生運動に没頭し、1858年11月17日に87歳で貧困のうちに没した。
同じ年に亡くなった人物
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- 歌川広重 (1858年没)
- アロイス2世 (1858年没)
- ホセ・デ・ラ・リバ・アグエロ (1858年没)
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