伝記
ラクシュミー・バーイーは、インド中部にあった小王国ジャーンシー藩王国の王妃で、インド大反乱の指導者の一人である。「インドのジャンヌ・ダルク」とも呼ばれ、「ジャーンシーのラニ」の名でも知られる。生年は定かでなく、1835年説のほか、1820年代後半から1830年ごろとする説もある。英語版によれば、ヴァーラーナシーでマラーターの家系に生まれ、本名はマニカルニカ・タンベ、幼いころの愛称はマヌだった。父モロパント・タンベは、1817年に宰相の地位を廃されたバージー・ラーオ2世の兄弟チマジーに仕えていた。母は彼女が4歳のときに亡くなり、父はバージー・ラーオ2世のビトゥールの宮廷に職を得て、彼女は同王にかわいがられたという。少女時代に剣術や乗馬を嗜んだという話は、裏づけのない伝説の域を出ない。生涯の前半は記録が乏しく、事実と伝承が混ざり合っている。
記録にはっきり現れるのは、1842年にジャーンシーの藩王ガンガーダル・ラーオに嫁いでからである。ジャーンシーは古くから交通の要衝として栄えたマラーター同盟の小王国で、イギリスと軍事保護条約を結んで藩王国となっていた。嫁いで王妃となり、ラクシュミーの名を与えられた。1851年に男児をもうけたが、わずか数か月で亡くなった。ガンガーダル・ラーオは1853年以降重病となり、彼女は養子を迎え、藩王国の存続を図って奔走した。しかしインド総督ダルハウジー侯爵は、後継者のいない藩王国を東インド会社に併合する「失権の原理」を進めており、彼女の尽力にもイギリス側は取り合わなかった。藩王が没すると、ジャーンシーは1854年にイギリスに併合され、彼女は宮殿の保有を許されて年金を与えられた。城の接収にあたり「我がジャーンシーは決して放棄しない」と告げたと伝わる。
王国を失ってからの3年間は隠棲し、表立った反英活動はしなかった。1857年5月にインド大反乱が起こると、ジャーンシーでも兵士と民衆が蜂起し、駐留していたイギリス人が降伏後に殺害された。反乱軍とイギリスの仲介を図ろうとした彼女にも関与の嫌疑がかかったが、イギリス側の公式報告書でも結論は出ていない。兵士たちがデリーへ向かって町が空白地帯になると、民衆に推されてジャーンシーの執政となった。私財を投じて雇った傭兵と民衆から募った義勇軍を率いて、7月にはイギリスと結んで利益を得ていた近隣の藩王や領主の攻撃を退け、8月にジャーンシー城を取り戻した。一方、イギリスとの直接対決には踏み切れず、1858年3月にイギリス軍が攻めてくる直前にも交渉を試みた。しかし反乱軍が再びジャーンシーに集まったため、イギリスから見れば彼女が反乱軍を集結させているように映った可能性が高い。近代装備の大軍に対し、女性や子どもまで含む志願兵とともにジャーンシー城で抵抗し、自らもライフルを手に戦ったが、半月近い籠城の末、1858年4月に砦は陥落し、わずかな手勢と脱出した。
カールピーで他の指導者たちと合流したが、そこもイギリス軍に攻め落とされた。再び逃れた彼女は計略をもって、6月1日にシンディア家の支配するグワーリヤル城を無血で奪い、拠点とした。しかしイギリス軍は16日から総攻撃を始め、18日に迎撃に出た彼女は前線で指揮中に狙撃されて戦死した。城は20日に陥落した。1947年のインド独立後は大反乱の英雄として再評価され、各地に銅像が建てられた。像はたいていサリー姿だが、実際は絹のブラウスと西洋風の乗馬ズボンといういでたちだったとされる。現在もインドの英雄として崇敬を集めている。
同じ年に亡くなった人物
- ホセ・グレゴリオ・モナガス (1858年没)
- Jozsef Bajza (1858年没)
- ヨーゼフ・カール・シュティーラー (1858年没)
- ジョセフ・ポール・ガイマール (1858年没)
- トマス・ベントン (1858年没)
同じ地域に関係する人物
- ムムターズ・マハル (1631年没)
- ベーラム (タギー) (1840年没)
- フスロー (1622年没)
- Roop Singh (1977年没)
- バースカラ2世 (1185年没)