HISTORICAL PERSON · 816年没

レオ3世 (ローマ教皇)

貧しい出身から教皇となり、暗殺者に襲われてカール大帝のもとへ逃れた。800年のクリスマスにカールへ帝冠を授け、西欧の新時代を開いた。

生涯
816年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

レオ3世は、795年12月26日から816年6月12日まで在位したローマ教皇である。生年は750年ごろとされるが確かでない。出自はローマの貧民階級ともいわれる。一方、教皇の歴史書『教皇列伝』は「ローマ人で、アツッピウスの子」と記し、年代記は、ローマでアスピウスとエリサベトの間に生まれたと伝える。ギリシア系とされることが多く、父の名からアラブ系の可能性を指摘する見方もある。ギリシア語を知っていたらしく、先代の教皇ハドリアヌス1世から聖スザンナ教会の枢機卿司祭に任じられ、教皇庁の財務の長であった可能性もある。

先代が埋葬された日の795年12月26日に選ばれ、翌日に叙階された。この性急さは、フランク人の干渉を避けたいローマ側の思惑によるとみられる。新教皇は、満場一致で選ばれたことを知らせる書簡とともに、聖ペトロの墓所の鍵と都市の旗をフランク王カールのもとに送り、使節の派遣を求めた。これは王を教皇庁の保護者と見なす表明であった。カールは祝意の書簡を返し、アヴァールから奪った財宝の大半を贈った。この財宝により、教皇はローマの教会や慈善施設に多くの寄進を行った。

しかし貧しい出自への反発もあり、先代の親族らには、嫉妬や野心、貴族だけが教皇の座に就くべきだとの考えから、レオを教皇にふさわしくない状態にしようと陰謀を企てる者がいた。799年4月25日、大連祷の行列でフラミニア門へ向かう途中、教皇は武装した男たちに突然襲われた。地面に叩きつけられ、舌を抜き目をえぐろうとされて、負傷して気を失った。カールの巡察使2人が兵を率いて駆けつけて救い出し、スポレート公ウィニゲスにかくまわれたのち、教皇はパーダーボルンのカールの陣営に赴き、最大級の礼をもって迎えられた。敵は教皇を姦通と偽誓で告発したが、パーダーボルンで決着はつかず、カールは教皇をローマへ送り返した。800年11月にはカール自身がローマへ赴き、12月1日に会議を開いた。教皇は12月23日に潔白の誓いを立て、反対派は追放された。

その2日後の800年12月25日、教皇はカールにローマ皇帝の帝冠を授けた。カールの伝記を書いたアインハルトは、大帝はこの成り行きを予期しておらず、知っていれば戴冠を受けなかっただろうと記している。しかし、当時コンスタンティノープルの帝位が女帝エイレーネーによって占められ、ローマ皇帝の座が797年から空位とみなされていたことや、カロリング朝の力と威信が固まっていたことから、以前から戴冠が論じられていたと考えてよい。この戴冠はコンスタンティノープルを怒らせたが、エイレーネーにはローマを守る力がなく、実質的な反対はできなかった。808年には、アンダルスからのイスラーム勢力の襲撃を受けたコルシカ島をカールの保護に委ねたが、同島はサルデーニャ島とともに809年と810年に占領された。教会行政では、ノーサンブリア王エアードウルフの復位を助け、ヨーク大司教とカンタベリー大司教の間の争いを調停した。

816年に没し、1673年に列聖された。西欧の大実力者と教皇の提携という新たな歴史の扉を開いた教皇として評価されている。

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