伝記
トーマス・バビントン・マコーリーは、1800年10月25日にレスターシャーで生まれたイギリスの歴史家、詩人、政治家である。ホイッグ党の下院議員を務め、のちに初代マコーリー男爵に叙せられた。父ザッカリーはハイランド出身のスコットランド人で、植民地統治の仕事をしながら奴隷制廃止の運動に力を注いだ人物であり、その縁でトーリー党の政治家たちが家をよく訪れた。トーマスはその長子であった。私立学校を経て18歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進み、数学は肌に合わなかったが、文学では卓越した才能を見せ、多くの詩を書いて賞やメダルを幾度も得た。同世代の貴族の子弟とも親交を深めた。1825年1月に西インド諸島の奴隷制についての記事を「エディンバラ評論」に寄せたのが文筆家としての出発で、同年8月に発表した2作目のミルトン論により一躍有名になった。
名声の陰で、家庭には災難が続いた。父が貿易会社を作って縁者に任せたところ、経営がうまくいかず、1826年には破産が避けられなくなった。一家は施しを受けるほどに落ちぶれ、両親と8人の弟妹の生活が長男の肩にのしかかった。1830年に妹ジェーン、翌1831年には母セリナを相次いで失っている。生活のために弁護士の道を選んだが、法律への興味は数学へのそれと大差なく、心は文学に向いていた。1829年には功利主義者ジェームズ・ミルを「エディンバラ評論」で攻撃して論争になり、その文調は攻撃的で挑発的であったと、本人も後に認めている。この論争を見たランズダウン侯爵は大いに感動し、1830年に自分が意のままにできる選挙区カーンから下院に当選させた。マコーリーはユダヤ人が選挙から排除されている現状を批判し、選挙法改正に熱弁をふるって、演説家としても名を上げた。1832年の選挙法改正後はリーズ選出の議員となった。
もともとトーリー的な環境に育ったが、大学で良家の子女と交わるうちにホイッグ派に傾いた。官憲の弾圧は許されないという道徳的な考えから、ピータールーの事件でトーリーから大きく離れたという。穏健なホイッグを自任し、宗教の寛容と自由を重んじて、アイルランドのカトリック聖職者養成機関への助成金の増額や、ユダヤ人の公民権に賛成した一方、普通選挙を求めるチャーティストは嫌悪した。ユダヤ人の公民権法案は下院で可決されても上院で否決される状態が、1858年まで続いた。1834年には自らインドに赴任し、インド刑法典の編纂と英語教育の普及に関する長大な覚え書きを残した。刑法典は改正を重ねながら今もその形を残し、シンガポールやナイジェリアなど他の植民地の刑法典の基礎にもなったという。帰国後は閣僚を歴任し、著作権法案の作成と審議にも関わった。1847年に選挙で敗れたのは、カトリック聖職者養成機関への助成金増額に賛成して、選挙区のプロテスタント住民の怒りを買ったためと本人は分析した。のち体調がすぐれず、1856年に下院議員を辞した。
1842年の『古代ローマ詩歌集』は発売と同時にベストセラーとなり、その後30年以上売れ続けた。ケンブリッジ大学の近代史欽定講座教授の職を女王の夫アルバートから薦められたが、固辞している。代表作『イングランド史』は1848年に第1巻と第2巻、1855年に第3巻と第4巻が出た。しかし体調を崩し、第5巻が未完のまま1859年12月28日に59歳で没した。この書は150年以上にわたり絶版されることなく売れ続けている。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ (1859年没)
- ルイ・シュポーア (1859年没)
- ジョージ・ビブ (1859年没)
- ヘンリー・ハラム (1859年没)
- ハインリヒ20世 (ロイス=グライツ侯) (1859年没)
同じ地域に関係する人物
- エリザベス・アンスコム (2001年没)
- ラルフ・フォウラー (1944年没)
- ロナルド・ノーリッシュ (1978年没)
- ジョゼフ・ニーダム (1995年没)
- ピーター・ギーチ (2013年没)