伝記
柳宗元は、中国唐代中期の文学者・政治家である。字は子厚。本貫の河東郡解県にちなんで「柳河東」「河東先生」と呼ばれ、柳州刺史であったことから「柳柳州」とも呼ばれる。773年に長安で柳鎮の子として生まれ、白居易や劉禹錫より1年遅れての誕生だった。十五代にわたって指導者を出してきた名門の家に育ち、20代には古典や史書に通じていたという。12歳から16歳までは地方官の父に従い、江南・江西から潭州のあたりを巡った。
貞元9年(793年)に進士に挙げられ、貞元14年(798年)には難関の博学宏詞科に合格して、政府の書籍編纂にあたる集賢殿正字に任じられた。新進気鋭の官僚として藍田県尉から監察御史を歴任した。そのころの唐では、宦官勢力を中心とする保守派に対し、若手官僚のグループが台頭していた。王叔文を頭目とするこの改革派に、柳宗元は盟友の劉禹錫とともに加わった。しかし既得権益の剥奪を恐れる保守派の猛反発を受け、担ぎ上げた順宗も病弱だったため、永貞元年(805年)、その退位とともに改革はわずか7カ月で頓挫した。礼部侍郎に就いたばかりの柳宗元の政治生命は、こうして尽きた。これを永貞改新という。
改革派は政治犯の汚名を着せられ、柳宗元は死罪こそ免れたが、邵州の刺史として左遷された。ところが処分が見直されてさらに厳罰が科されることになり、邵州に着く前に刺史を免ぜられ、より格下の永州の員外司馬に再度左遷された。員外司馬は貶謫の官で、政務には従事しない。時に33歳であった。八司馬事件と呼ばれる。以後10年にわたって永州に暮らした。永州は現在の湖南省にあたり、亜熱帯で異民族も雑居する「異郷」だった。孤独を紛らわすために各地の風物を見て回り、その遊覧から山水紀行「永州八記」が生まれた。そこには中央から隔絶された憂愁が色濃く映っている。また「三戒」「宋清伝」「捕蛇者説」などの寓言にも佳作が多い。
元和10年(815年)、柳宗元は召還の通知を受け、赦免されるのではと期待して急ぎ永州を発ち、劉禹錫とともに参内した。しかし待っていたのはさらに遠方への左遷で、柳宗元は柳州、劉禹錫は播州への任命だった。高齢の母を持つ劉禹錫を案じた柳宗元は、赴任地の交換を願い出た。そのままの形では受け入れられなかったが、宰相の裴度の口添えもあり、劉禹錫の任地は長安にわずかに近い連州に改められた。柳宗元の友情の厚さを示す話として今に伝わる。柳州は風土に適応することさえ困難な地だった。高温多湿で風土病や猛獣、虫が多く、多数の部族が住んで漢民族とは異なる習俗があり、部族間の武力衝突も絶えなかった。永州からの持病の脚気と痞結に加え、疔瘡や金瘡も患い、滞在の過半を病床で過ごしたため、現存する文集では柳州での詩文は極めて少ない。柳宗元は元和14年(819年)、47歳で没した。中央復帰の夢はついにかなわなかった。
思想の面では、天意を認めると政治の責任が天に帰して宙に浮き、皇帝の専制や宦官の横暴を許すことになると考え、「聖人の意は神・天に在らず、人に在り」と説いた。「生人を貴しと為し、社稷は之に次ぐ」という孟子の言葉を政治の旗印とし、儒教・道教・仏教を折衷して、仏教には肯定的で韓愈の廃仏論に反論した。文章では韓愈とともに古文復興運動を唱え、修辞に傾いた四六駢儷文を批判して秦漢の古文を範とし、唐宋八大家の一人に数えられる。詩は陶淵明の遺風を承け、王維・孟浩然・韋応物とともに「王孟韋柳」と並称された。韓愈の「柳子厚墓誌銘」以来、政治上の挫折がかえって文学者としての大成を促したとしばしば指摘される。
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