HISTORICAL PERSON · 1982年没

黄現璠

中国の歴史学者・民族学者。チワン族史とチワン学の第一人者で、中国現代民族学研究の先駆者の一人とされ、八桂学派などを創始した。

生涯
1982年没
死亡地
中華人民共和国(広西チワン族自治区 / 桂林市)
出生地
中華人民共和国(扶綏県)
出典
世界地図
中華人民共和国(広西チワン族自治区)

伝記

黄現璠は、中国の歴史学者・民族学者で、チワン族の出身である。本名は甘錦英。清朝の広西省南寧府新寧州の農民の家に生まれ、幼少時は家塾で学び、広西第三師範高等学校を経て、1926年に国立北京師範大学に入学した。陳垣や銭玄同から史学と、訓詁についての考証学を学び、1932年に極めて優秀な成績で卒業して大学院に進んだ。大学院在学中には、指導教員の銭玄同の勧めで、研究所の史料編纂員となった。1935年、広西省の援助を受けて日本に渡り、東京帝国大学文学部大学院の東洋史学研究科に留学した。池内宏、加藤繁、和田清らの指導を受け、白鳥庫吉、津田左右吉、宮崎市定らとも知り合った。この留学で、東西の歴史研究の要素を融合させた独自の視点を得たとされる。

1937年に盧溝橋事件が起きると帰国し、翌年、国立広西大学に招かれて史学講師となり、中国通史を教えた。1940年に助教授となり、1941年には広州の国立中山大学の史学教授として、漢代・唐代・宋代史などを講じた。1942年に国立桂林師範学院の教授となり、1943年に再び広西大学で教え、魏晋南北朝史や中国文化史、日中文化交流史を担当しつつ、民俗学や少数民族の調査を行った。1943年から熱心に少数民族の調査活動に取り組み、中国語、チワン語、ヤオ語、トン語、日本語、英語に通じていたことが、現地調査に役立った。同年8月に貴州省と広西省の少数民族辺区の調査団を組織して団長となり、1945年にも別の調査団を組織して、山岳地帯の奥深くまで入り、貴重な歴史資料を集めた。

1949年に中華人民共和国が成立すると、1954年に広西師範学院の教授となり、図書館長も兼ねて、中国通史や先秦史などを長く講じた。全人代広西省代表や全人代民族委員会委員などの役職も務めた。1956年には、広西少数民族社会歴史調査グループの創設に参加し、チワン族グループの組長として、広西の少数民族の歴史と伝統文化の、初めての系統的で大規模な調査を率いた。この調査は、広西民族研究所の創立とチワン学の発展の基礎になったとされる。

しかし、1957年の反右派闘争のなかで、1958年2月に全人代の第1期第5回会議が、費孝通らとともに黄現璠の全人代民族委員会委員の職を免じる決議を行い、「中国の歴史学界で最大の右派分子」として失脚した。図書館の管理員に左遷され、文化大革命の期間にも「ブルジョアの反動的な学界の権威」として糾弾され、紅衛兵の攻撃対象となった。1958年から1979年までの21年間、政治的迫害を受けたことになる。

1979年に名誉を回復されると、全国政治協商会議の委員や、民族学研究会の顧問などを務めた。1981年には桂林に民営の漓江大学を創設して校長となり、現代的な民間大学を創る先駆者の一人と見なされた。同年3月には四川省宜賓地区で、少数民族の懸棺葬を考察している。1978年と1979年にはチワン族の花山の岩絵と銅鼓の調査も行った。代表作には、中国人による最初の「中国通史」と名のつく歴史書とされる『中国通史綱要』や、『唐代社会概略』『広西僮族簡史』『壮族通史』などがある。考古資料、歴史文献、民族学の調査資料の三つを結びつける「三重証拠法」を提唱した。黄現璠は1982年に没した。

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