伝記
マアマル・イブン・アル=ムサンナー、通称アブー・ウバイダ(728年-825年)は、バスラに生まれ、初期のイスラーム世界を代表するアラビア語文献学者となった。論争の的になった人物でもあり、のちの学者イブン・クタイバは「彼はアラブ人を憎んでいた」と評した。それでも同時代の人々は、彼を当代で最も幅広い学識をもつ学者の一人とみなしていたという。
出自はペルシア系のユダヤ人とされる。若いころにはアブー・アムル・イブン・アル=アラー、ユーヌス・イブン・ハビーブ、アル=アクファシュ・アル=アクバルらに学び、のちには同時代の学者アル=アスマイーと並び立つ存在となった。803年、カリフのハールーン・アッ=ラシードに招かれてバグダードへ赴いた。多くの歴史家が伝える逸話がある。カリフが馬を引き出させ、アル=アスマイーとアブー・ウバイダ(動物学についても多く著していた)に、馬の体の各部位の正しい名称を答えさせようとした。アブー・ウバイダは、自分は言語学者であり詩文の収集家であって獣医ではないと言って辞退した。するとアル=アスマイーが馬に飛び乗り、全身の部位を言い当て、ベドウィンの詩から用例を挙げて、それらの語がアラビア語として正しいことを示したという。弟子には名高い音楽家イスハーク・アル=マウスィリーがいた。
彼はアラビア語、古い事物、故事に関するあらゆる事柄で、当代屈指の博識かつ権威ある学者であり、後世の著述家たちにたびたび引用された。その名は、のちの書物に絶えず見られる。アル=ジャーヒズは彼をあらゆる学問分野で最も博識な人物とみなし、イブン・ヒシャームはクルアーンの一節についてさえ彼の解釈を受け入れた。ところが本人は、クルアーンの一節を発音の誤りなしに暗唱することができなかったともいわれる。それでも、とくに用例の少ない語彙について、クルアーンの語義に通じた専門家と考えられていた。イブン・アン=ナディームの『目録』には彼の著作が105点挙がっている。『日々の書』は、イブン・アル=アスィールの歴史書やアブー・アル=ファラジュ・アル=イスファハーニーの『歌の書』の一部の基になった。ただし、一曲の歌を除けば、独立した形で現存するものはないようである。彼は825年、生まれ故郷のバスラで没した。
宗教上・民族上の立場については議論が続く。ギブは、イブン・クタイバが数世紀後に非難するまで、誰も彼をアラブ人への偏見で責めなかったとし、それは彼がハワーリジュ派であったためだと考えた。これに対してヒュー・チザムは、彼はハワーリジュ派でも人種差別主義者でもなく、アラブ人が生まれながらに優れているとする考えに反対したシュウービーヤ運動の支持者にすぎないとする。チザムによれば、アラブ人が自分たちに固有のものと信じていた言葉、寓話、習慣などが、実はペルシア人に由来すると示すことを彼は好んだ。この点で彼はアル=アスマイーの好敵手であった。またクルアーンにアラビア語以外の語彙は含まれないと主張したが、のちのアッ=スユーティーらはこれに反対した。
こうした論争を別にしても、その影響の大きさはよく知られている。後世の著述家が伝えるイスラーム以前のアラビアに関する情報のほぼ半分は、彼を経由したものだという。また現存最古のクルアーン注釈(タフスィール)を著し、これはイブン・ヒシャームの預言者伝にある詩句などを説明する際の基礎となった。
同じ年に亡くなった人物
- ウライヤ・ビント・マフディー (825年)
- ベオルンウルフ (マーシア王) (825年没)
- ディクイル (825年)
- ランポー (825年)
同じ地域に関係する人物
- モッラー・サドラー (1636年没)
- アブー・ダーウード・シジスターニー (888年没)
- ジャーヒズ (860年代没)
- イブン・アル=ムカッファ (757年没)
- タルハ・イブン・ウバイドゥッラー (656年没)