HISTORICAL PERSON · 1861年没

アブデュルメジト1世

オスマン帝国の第31代皇帝。在位は1839年から1861年で、即位後にタンジマートの改革が始まった。

生涯
1861年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / イスタンブール)
出生地
トルコ共和国(イスタンブール)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

アブデュルメジト1世は、1823年4月25日にイスタンブールで生まれた、オスマン帝国の第31代皇帝である。第30代皇帝マフムト2世の子で、母はベズミアレム・スルタンといった。母はもとは奴隷であったと言われ、宮廷でマフムト2世に気に入られたとされ、出自はコーカサス出身のグルジア系とも伝えられる。弟には第32代皇帝アブデュルアズィズがいる。彼はヨーロッパ風の教育を受けてフランス語を流暢に話し、弟と同じく文学とクラシック音楽に興味を持った。

1839年、第二次エジプト・トルコ戦争の最中に父が崩御し、後を継いで即位した。16歳の若さで、帝国は危機的な状態にあったが、翌1840年7月にイギリスの調停のもとでロンドン条約を結んでムハンマド・アリーと和睦し、エジプトの世襲権を認めた。治世の前半から中盤には、自身に才能があり改革への熱意も強かったこと、父の治世から改革の基盤が整っていたこと、名宰相と称されたムスタファ・レシト・パシャの補佐があったことから、積極的な近代化に取り組んだ。即位の直後にはレシト・パシャの協力のもとでギュルハネ勅令を出し、行政、軍事、財政、司法、教育など多方面にわたる改革、すなわちタンジマートを表明した。

改革は多岐にわたり、1840年に紙幣を初めて導入して郵便局を開設し、徴税請負制を廃止した。1842年から1844年には軍隊を再編し、1844年には国旗と国歌の作成、国勢調査の実施、戸籍制度の成立、新しい通貨の発行などを行った。フランスをモデルとした金融制度、民法、刑法を整え、奴隷市場を廃止し、1848年には近代的な大学を設置した。1845年に設立した議会は、のちの1876年に開かれる議会の原型となった。イスタンブール郊外に約150の官営工場を設け、電信や鉄道の普及も進めた。文化面では、アルメニア人建築家に命じて新たな宮殿の建築を始めさせ、13年の歳月を経て1856年にドルマバフチェ宮殿が完成した。1847年にはターバンが正式に禁止され、代わりにフェズが導入された。

民衆の声にも耳を傾け、改革の実施状況を知るために、1844年にはイズミトやブルサ、ガリポリなどを、1846年にはバルカン半島各地を視察した。ロシアのコーカサス侵攻による亡命者や、1849年のハンガリー革命の亡命者の引き渡しをロシアとオーストリアに求められたが、これを拒否した。1845年にアイルランドでジャガイモ飢饉が起きると、イギリス政府に1万ポンドの寄付を申し出たが、女王の2000ポンドを上回るとして1000ポンドにとどめるよう返答された。すると、1000ポンドの寄付に加えて穀物を満載した3隻の貨物船をアイルランドへ派遣し、ドロヘダで積み荷を降ろしたという。

1853年にロシアのニコライ1世がギリシア正教徒の保護を理由に宣戦し、クリミア戦争が始まった。当初は劣勢だったが、英仏などの援助を得て盛り返し、1856年にパリ条約を結んでオスマン帝国の国際的地位を高めた。同年にはガーター勲章も授与された。しかし1858年にレシト・パシャが死去すると政治への関心を失い、改革を取りやめて浪費に走ったとされる。1854年に初めて外債を発行し、その後も重ねたため、批判した大宰相は1859年に罷免された。1861年、結核により39歳で崩御し、後を弟のアブデュルアズィズが継いだ。

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