伝記
エリザベス・バレット・ブラウニングは、1806年3月6日(とされる)にイングランド北東部ダラム州のコクスホー・ホールで生まれた詩人である。父エドワード・バレット・モールトン=バレットと母メアリー・グレアム・クラークの間の12人きょうだい(男8人、女4人)の長女で、家ではバと呼ばれていた。生年月日をめぐっては、洗礼を受けた時点で生後3、4か月だったのではないかと推測する伝記作者もいる。両親の結婚が1805年5月だったことが理由とされる。一家はジャマイカに1655年から根を下ろした家柄で、父は子どもたちをイギリスで育てながら、事業をジャマイカに置いていた。その富は主に、西インド諸島の奴隷農園の所有に由来した。1809年に一家はマルヴァーン丘陵に近いヘレフォードシャーの広大なホープ・エンドの屋敷に移り、父は邸宅をトルコ風の豪奢な建物に建て替えた。母はそれを『アラビアン・ナイト』の一場面のようだと評したという。
快適で裕福な少女時代を送り、ポニーに乗り、家族で散歩やピクニックに出かけ、近隣の名家と交わり、家庭劇にも加わったが、機会さえあれば家族の社交を離れて本に没頭した。ギリシャ語とラテン語は独学で学び、11歳から詩を書いており、14歳のときには『マラトンの戦い』を私費出版した。15歳で病に倒れ、以後は生涯にわたって激しい頭痛と背中の痛みに悩まされた。痛みのためにごく若い頃からアヘンチンキを服用しており、のちには肺も患って、結核だった可能性が指摘されている。
1840年代、遠縁で後援者のジョン・ケニヨンの紹介で文学界に出入りするようになった。最初の本格的な詩集は1838年に出ており、1841年から1844年にかけては詩、翻訳、散文を精力的に書いた。奴隷制廃止を訴え、その作品は児童労働に関する法改正の世論にも影響を与えたとされる。多作ぶりから、ワーズワースの死後に桂冠詩人の座をめぐってテニスンのライバルと目された。1844年の『詩集』が大きな成功を収めると、詩人ロバート・ブラウニングが感動し、1845年1月10日に手紙を送ってきた。それをきっかけに、結婚までの約2年間に574通のラブレターを送り合っている。父の反対を恐れて交際も結婚も秘密にして進められ、1846年9月に結婚すると、案の定、父から相続権を奪われた。夫妻はイタリアへ駆け落ちし、彼女は残りの生涯をそこで過ごした。一人息子は1849年生まれのペンで、のちに視力が衰えるまで絵に打ち込み、両親の原稿や遺品の大規模な収集も築いた。その一部は、現在テキサス州ウェイコのアームストロング・ブラウニング図書館に収められ、世界最大のブラウニング関連資料のコレクションとなっている。
代表作に、夫との恋愛をもとにした44のソネットからなる詩集『ポルトガル語からのソネット』(1850年)や、長編の物語詩『オーローラ・リー』がある。詩の影響はエドガー・アラン・ポーやエミリー・ディキンソンらにも及んだ。1861年6月29日、フィレンツェで夫の腕に抱かれ、55年の生涯を閉じた。遺体はフィレンツェのプロテスタント墓地に葬られた。のちの詩を集めた詩集は、没後まもなく夫の手で出版された。
同じ年に亡くなった人物
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- イジドール・ジョフロワ・サン=ティレール (1861年没)
- ジョン・スティーブンス・ヘンズロー (1861年没)
- シドニー・ハーバート (初代ハーバート・オブ・リー男爵) (1861年没)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王) (1861年没)
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