伝記
アルバートは、1819年8月26日にコーブルクで生まれたザクセン=コーブルク=ゴータ公子で、イギリス女王ヴィクトリアの夫である。ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公エルンスト、のちのエルンスト1世の次男で、母ルイーゼはザクセン=ゴータ=アルテンブルク公アウグストの娘であった。父は女性関係が派手で、母を裏切り続け、母も別の男性と関係を持つようになって離婚を言い渡され、息子たちに会うことも禁じられたとされる。こうした家庭環境から、アルバートは両親を反面教師として誠実な夫になったと言われる。
ヴィクトリアとの結婚を積極的に推したのは、双方の叔父にあたるベルギー国王レオポルド1世であった。1836年5月、アルバートは家族とともにロンドンを訪れ、ケンジントン宮殿でヴィクトリア王女と対面した。当時の国王ウィリアム4世はこの縁組に賛成せず、別の相手を考えていたが、ヴィクトリア自身は金髪に青い瞳のアルバートに一目惚れしたという。1837年6月に彼女が18歳で即位し、1839年にアルバートは兄エルンストとともに再びロンドンを訪れて、同年10月に婚約した。翌1840年2月10日、セント・ジェームズ宮殿の王家礼拝堂で結婚式を挙げた。ドイツ系のアルバートとの結婚は、イギリス国民からあまり歓迎されなかったようである。
出産と育児に追われる女王に代わって公式行事に出席するなど、実質上は君主の役割を果たしたが、結婚17年後に王配殿下の地位が正式に与えられるまで、イギリスでの公的な地位を持たなかった。夫婦仲はとても良く、4男5女の9人の子に恵まれた。長女は父によく似た優等生だったが、長男のアルバート・エドワード、のちのエドワード7世は問題児で、父を悩ませた。1841年にはレーツェンの仕事ぶりに問題を感じ、女王の反対を説得して解任に同意させ、実権を握った。当時の王室は無秩序で、部署同士の縄張り争いや無駄遣いが目立っていた。彼はドイツ人らしい徹底した方法で職員の大半を入れ替え、部署を大幅に削減し、王室費を2万5000ポンド節減した。だが職員の副収入の道を断ったため、反発や「けちな男」という悪口を招いた。増えた収入でワイト島に広大な土地を購入し、オズボーン・ハウスを建てて、毎年家族と過ごした。
政治にも関わり、枢密院のメンバーに加わって女王の秘書や顧問を務めた。メルバーン子爵は早くから彼の才能を見抜き、女王にその言葉をよく聞くよう進言したという。ロバート・ピールも微妙な問題が起きるとまず彼の意見を求めたとされる。1843年には王立技芸協会の会長に選ばれた。1851年にはロンドン万国博覧会を成功させた。鉄とガラスでできた水晶宮が呼び物となり、彼は準備の中心にあって最大の出資者でもあった。700万人が訪れ、収益は経費の倍以上にのぼり、国民の人気を集めたのは後にも先にもこの時だけだったという。
1861年11月、エドワードと女優との交際が外国の大衆紙に載り、アルバートは病身のままケンブリッジへ向かった。そして12月14日、腸チフスを患い、42歳で薨去した。持病の胃痛や、母が癌で亡くなったことから、もともと胃癌だった可能性が高いとも言われる。ヴィクトリアは深く嘆き、以後、自身が崩御するまでの39年間を黒い喪服だけで過ごしたという。
同じ年に亡くなった人物
- マリーア・カロリーナ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1820-1861) (1861年没)
- ウジェーヌ・スクリーブ (1861年没)
- エリシャ・オーチス (1861年没)
- ミハイル・ドミートリエヴィチ・ゴルチャコフ (1861年没)
- アーサー・ヒュー・クラフ (1861年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョージ4世 (イギリス王) (1830年没)
- ウィリアム4世 (イギリス王) (1837年没)
- レスリー・チャータリス (1993年没)
- フィリップ (エディンバラ公) (2021年没)
- アミーリア・オブ・ザ・ユナイテッド・キングダム (1810年没)