HISTORICAL PERSON · 1862年没

サミュエル・コルト

アメリカの発明家・工場経営者。1836年にリボルバー拳銃の特許を取得し、コルト特許武器製造会社を創設して普及させた。部品を機械で作り互換性を持たせる、製造ラインの考えにも貢献した。

生涯
1862年没
死亡地
アメリカ合衆国(コネチカット州 / ハートフォード)
出生地
アメリカ合衆国(ハートフォード)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(コネチカット州)

伝記

サミュエル・コルトは、1814年7月19日に生まれたアメリカ合衆国の発明家、工場経営者である。コルト特許武器製造会社(のちのコルト製造会社)を創設し、リボルバー拳銃を普及させたことで知られる。父クリストファーはコネチカット州の農夫から実業界に転じ、一家でハートフォードへ移った。母サラは、コルトが7歳になる前に亡くなった。五男三女の8人兄弟で、姉妹のうち2人は幼くして亡くなり、もう1人はのちに自殺したが、生き延びた兄弟は事業で重要な役割を果たした。11歳のとき、父が再婚してオリーブ・サージェントが継母となった。同じ11歳でグラストンベリーの農場に年季奉公に出され、学校に通いながら雑用をした。そこで、聖書の代わりに科学事典『知識の大要』を読み、ロバート・フルトンや火薬の記事に触発された。5、6発続けて撃てる銃の話も耳にし、それまで不可能と思われたことを成し遂げた発明家たちにならって、「不可能な」銃を作ろうと決意したと伝えられる。

1829年にはマサチューセッツ州ウェアにあった父の繊維工場で働き、自作の電気式火薬電池をウェア湖で爆発させた。1832年、海洋交易を学ぶため船でカルカッタへ向かい、その航海中に船の動輪を観察して、リボルバーの着想を得たと後に語っている。帰国後は父の工場でまた働いたが、父は息子の案を愚かだと考え、賃金の安い機械工しか雇わなかったため、試作の拳銃は1丁が発射時に爆発し、もう1丁は弾が出なかった。その後は笑気ガスの実演で各地を回って生活費を稼いだ。1835年にイギリスに渡って最初の特許を取り、フランスでも売り込みを図った。帰国後の1836年2月25日にワシントンでリボルバーの特許を得て、同年に投資家とともにニュージャージー州パターソンで会社を設立した。

しかし経営はたびたび行き詰まった。州兵法の規定により州兵は軍が使う武器しか買えず、売り込みは難しかった。ヴァン・ビューレン政権下の経済危機で会社は破産したが、セミノール戦争で一時救われた。それでも1843年末にはパターソンの工場が閉鎖された。コルトは水中電気起爆装置の売り込みでサミュエル・モールスと知り合い、耐水性ケーブルを電信線に生かす共同事業も行った。転機は1847年の米墨戦争で、政府とサム・ウォーカー大尉から1,000挺の注文を受け、事業を立て直した。工場がなかったため、イーライ・ホイットニー・ジュニアの助けを借りて製造した。その後ハートフォードに会社を築き、コルトの名はリボルバーの一般名詞のようになった。

コネチカット川のほとりに大工場コルト・アーモリーと邸宅アームズミアを建て、従業員には1日10時間労働と昼食休憩1時間を定め、洗濯場や娯楽のクラブも用意して、福利厚生に先駆的な雇用主となった。1856年6月5日、牧師の娘エリザベス・ジャービスと結婚した。南北戦争では莫大な利益を上げ、1861年に自社製のリボルビングライフル1,000挺を政府に提供し、自らも大佐として連隊を率いるつもりであったが、痛風や炎症性リューマチなどの併発で1862年1月10日に没した。遺産は約1,500万ドルと見積もられ、妻と息子に遺された。

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