HISTORICAL PERSON · 1862年没

ジャン=バティスト・ビオ

フランスの物理学者・天文学者・数学者。電流と磁場の関係を調べてビオ・サバールの法則に名を残した。レーグル隕石を調査して宇宙起源と結論づけ、偏光の研究や熱気球での大気研究でも知られる。

生涯
1862年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジャン=バティスト・ビオは、1774年4月21日にパリで生まれ、1862年2月3日にパリで没したフランスの物理学者・天文学者・数学者である。電流と磁場の関係を研究して「ビオ・サバールの法則」に名を残したほか、隕石の研究、熱気球による飛行、偏光の研究などでも知られる。父ジョゼフはロレーヌ地方の農家の出で、財務の仕事に就いていた。ビオはパリの名門校ルイ=ル=グラン校で学び、父に商業を学ばせるためル・アーヴルへ送られたが、その境遇から逃れようと18歳で志願して砲兵になり、フランス革命戦争の戦闘にも加わったという。膝を病んで入院したのちパリに戻り、1794年に土木学校へ入学して技師になるための勉強を始め、一時は大砲の研究もした。

卒業後は教職を選び、1797年にボーヴェの中央学校の数学教授となり、のちにはエコール・ポリテクニークでも教えた。1801年にはラプラスの後援を得て、29歳でコレージュ・ド・フランスの教授に就任した。1803年に科学アカデミーの会員に選ばれ、同年に一人息子が生まれている。同じ1803年、アカデミーの要請を受けて、フランスのレーグルに落ちた隕石を調べに赴き、約3000個の破片を回収して、それらが宇宙起源だと結論づけた。報告書は、1794年にクラドニが発表した隕石宇宙起源説を支持するものだった。それ以前には地球上の岩に宇宙起源のものがあると信じる人はほとんどなく、火の玉と変わった石の目撃談は空想として退けられていた。この調査によって、空の火の玉が流れ星だという理解が一般に受け入れられるようになったとされる。

1804年にはゲイ=リュサックと熱気球に乗って約5000メートルまで上昇し、大気の性質を調べた。1806年にはラプラスの指導のもと、アラゴとともに子午線弧の測量を完成する任務を受けてスペインへ向かった(ビオは途中で帰り、作業はアラゴが続けた)。1812年ごろからは光学に関心を移し、偏光を研究した。有機物の溶液に偏光を通すと右または左に旋光することを確かめ、どちらに旋光するかは分子の形状によると結論づけて、光学異性体の可能性を唱えた。これはのちにパスツールが酒石酸塩の光学分割に成功して証明され、その際にはビオがパスツールを呼んで実験をさせたという。この研究は後に偏光板の発明へつながり、液晶ディスプレイなどにも応用された。1820年にはサヴァールとともに、電流を流した長い導線が方位磁針を振らせることを確かめ、これがビオ・サバールの法則の名の由来となった。

1806年に経度局の天文学者補佐となり、1825年には正会員となって、1817年のスコットランドとシェトランド諸島での振り子の測定など、各地で科学的な任務を負った。パリ大学理学部では天文学の初代の講座を担い、1840年から学部長を務め、1849年に退職して名誉教授となった。古代エジプトのヒエログリフの解読にも関わったとされる。

1814年にレジオンドヌール勲章のシュヴァリエとなり、1849年にはコマンドゥールに選ばれ、1815年に王立協会の外国人会員に選ばれて、1840年にはランフォード・メダルを授与された。黒雲母の名や月のクレーターの名もビオにちなむ。

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