伝記
ジャコモ・マイアベーアは、1791年9月5日にベルリン近郊で生まれ、1864年5月2日にパリで没したユダヤ系ドイツ人の歌劇作曲家である。本名はヤーコプ・リープマン・ベーアという。裕福な銀行家ユーダ・ヘルツ・ベーアと、マルカ・リープマン・マイアー・ヴルフの息子で、リープマンは母方、マイアベーアは父方と母方の複合姓である。母方の祖父の遺産を相続する際に、マイアーをベーアの前に付け加えて、マイアベーアと名乗りはじめた。兄弟には天文学者のヴィルヘルム・ベーアと劇作家のミヒャエルがおり、マイアベーアはミヒャエルの詩による歌曲を残している。
カール・マリア・フォン・ウェーバーとともにダルムシュタットでフォーグラー神父に作曲を学び、さらにクレメンティやサリエリ、ツェルターなど当時のベルリン音楽界の重鎮に師事した。ピアノ演奏家としては名声を得たが、1812年に『イェフタの誓い』、1813年に『主人と客』というドイツ語オペラを初演して失敗し、1814年に『主人と客』を『二人の太守』に改編して上演したがこれも失敗に終わった。この時点では作曲家として成功しなかった。サリエリの勧めで1816年にイタリアへ赴き、ヴェネツィアでロッシーニの歌劇『タンクレーディ』を聴いて感動し、歌劇作曲家への志を新たにした。パドヴァで上演した作品(1817年)で最初の成功を収め、1819年にはトリノで上演し、ヴェネツィアでの次作の成功によってミラノ・スカラ座から作品を求められ、1820年に上演、さらに1822年の作品で名声を高めた。1824年にヴェネツィアで初演した『エジプトの十字軍』は圧倒的な成功となり、これを機にパリ進出を決意した。
パリは、ユダヤ人にとって活躍しやすい環境にあり、著作権についても他国より進んでいて、作曲家の法的立場が保護され、報酬も高額だった。1830年代以降のフランスの楽器産業の進歩は、オペラのオーケストラに新しい楽器やテクニックを取り入れることにもつながった。マイアベーアは1825年の『エジプトの十字軍』のパリ公演で名声を博し、1826年からパリに定住して、『悪魔のロベール』(1831年)、『ユグノー教徒』(1836年)、『預言者』(1849年)などを発表し、国際的名声を確立してグランド・オペラの黄金時代を築き上げた。1842年からベルリン宮廷歌劇場の音楽監督に就任し、これ以降はパリとベルリンを頻繁に行き来した。銀行家の息子だけに事業の才にも長け、聴衆の趣向の把握、劇場の管理者との連携、宣伝、ジャーナリストへの対応、収益管理を手際よくこなした。1826年には裕福な従妹ミナ・モッソンと結婚している。ベルリオーズは彼の作曲技術を高く評価し、「才能を持って生まれる幸運に恵まれただけでなく、幸福をつかむ才能もあった」と語った。
ロッシーニのイタリア歌劇の様式とモーツァルトなどのドイツ歌劇の様式を折衷し、豪華絢爛なグランド・オペラの形式を確立して、その後のフランス・オペラやワーグナーにも影響を与えた。歌劇以外にも、クラリネット五重奏曲、歌曲、ピアノ小品などがある。しかし1850年、ワーグナーが変名で反ユダヤ主義に基づく『音楽におけるユダヤ性』を発表し、名指しはしないまでもマイアベーアを激しく批判した。シューマンの攻撃もあり、その死後に作品の評価は急速に低下し、ナチス政権の支配地域ではユダヤ人の音楽が退廃音楽として弾圧され、上演されなかった。生前の栄華と死後の衰退のへだたりが、これほど大きい例は珍しいといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- エイマブル・ペリシエ (1864年没)
- ヤーコプ・ローバー (1864年没)
- 佐久間象山 (1864年没)
- アウグステ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ (1864年没)
- エリーザベト・アレクサンドリーネ・フォン・ヴュルテンベルク (1864年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィクトル・ヴァザルリ (1997年没)
- モーリス・ファルマン (1964年没)
- エクトル・ベルリオーズ (1869年没)
- ロラン・ドルジュレス (1973年没)
- ジョン・ポール・ジョーンズ (軍人) (1792年没)