HISTORICAL PERSON · 835年没

空海

平安時代初期の僧で真言宗の宗祖、弘法大師。804年に入唐して長安の恵果から密教を受け、経典や曼荼羅を日本へ伝えた。嵯峨天皇・橘逸勢と並ぶ三筆の一人で、東寺を賜り『聾瞽指帰』も著した。

生涯
835年没
死亡地
日本(和歌山県 / 高野山)
出生地
日本(善通寺)
出典
世界地図
日本(和歌山県)

伝記

空海は、平安時代初期の僧で、真言宗の宗祖である。774年(宝亀5年)、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県)に生まれたという説がある。俗名は佐伯眞魚、幼名は真魚で、父は郡司の佐伯田公、母は安斗智徳の娘の玉依御前とされる。788年に平城京へ上り、母方の叔父で伊予親王の家庭教師だった阿刀大足に論語や孝経、史伝、文章などを学んだ。792年、18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻して春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだ。

だが大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入った。24歳で儒教・道教・仏教を比較した『聾瞽指帰』を著している。この時期には一沙門から虚空蔵求聞持法を授かり、阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬で修めたという。室戸岬の御厨人窟で修行していたとき、口に明星が飛び込んできて悟りを開き、目にしていたのが空と海だけだったので空海と名乗った、と伝わる。得度については諸説あり、入唐直前の804年に東大寺戒壇院で受戒したという説が有力視されている。

804年、空海は遣唐使の長期留学僧として唐へ渡った。同じ遣唐使の一行には、すでに高い地位にあった最澄もいたが、空海はまったく無名の一沙門だった。乗った船は嵐で大きく航路をそれ、福州の赤岸鎮に漂着して海賊の嫌疑をかけられた。このとき空海は遣唐大使に代わって長官への嘆願書を代筆し、その理路整然とした文章と優れた筆跡によって遣唐使と認められ、長安入りを許された。長安では西明寺に住み、醴泉寺の般若三蔵に就いて梵語を磨き、805年5月には青龍寺の恵果和尚を訪ねた。恵果は初対面で空海がすでに十分な修行を積んでいることを見抜き、ただちに密教の奥義の伝授を始めた。空海は胎蔵と金剛界の灌頂を受け、8月には伝法阿闍梨位の灌頂を受けて、遍照金剛の名を与えられた。同年12月に恵果が没すると、空海は弟子を代表して碑文を起草した。このとき空海は、青龍寺や大興善寺から500人にのぼる人々を招いて食事で接待し、感謝を表したという。

806年、20年の予定だった留学を2年で切り上げ、遣唐使判官の高階遠成の帰国に便乗して帰国した。10月に『請来目録』を朝廷に提出し、経典や両部大曼荼羅、密教法具などを持ち帰ったことを記している。しかし朝廷は809年まで入京を許さず、空海は数年間を大宰府で過ごした。入京後は高雄山寺に入り、嵯峨天皇のもとで810年の薬子の変では鎮護国家の祈祷を行った。最澄とは一時交流したが、理趣釈経の借覧を空海が断ったことなどもあり、816年初頭頃に訣別した。

816年に高野山の下賜を請うて勅許を得ると、弟子たちを派遣して開創に着手し、819年には七里四方に結界を結んで伽藍の建立を始めた。821年には満濃池の改修を指揮して成功させている。822年には太政官符により東大寺に灌頂道場の真言院を建立し、この年平城上皇に灌頂を授けた。823年には東寺を賜って真言密教の道場とし、824年には神泉苑で祈雨法を修し、3月に少僧都に任じられて僧綱入りした。828年には庶民にも門戸を開いた私立の学校、綜芸種智院を開設した。830年には淳和天皇の勅に答えて『秘密曼荼羅十住心論』を著した。832年には高野山で最初の万燈万華会を修し、秋から高野山に隠棲して穀物を断ち、禅定を好む日々に入った。835年4月22日(承和2年3月21日)に没し、諡号は弘法大師とされた。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢とともに三筆に数えられる。

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