伝記
ムハンマド・タキーは、シーア派十二イマーム派の第9代イマームである。名はムハンマド・イブン・アリー・イブン・ムーサーといい、クンヤはアブー・ジャアファルである。ジャワード(豊穣なるもの)の名でも知られる。811年、マディーナの近くに生まれた。父は第8代イマームのアリー・リダー、母はヌビア出身の奴隷ハイズラーンとされるが、母の名については「ハビーバ」「ドッラ」「サビーカ」など、さまざまな名が伝えられている。出生月にも異説があり、ラジャブの10日とする説と、ラマダーン月とする説がある。父と結婚してから子の誕生までに約30年の間があったことから、父子の関係を疑う声もあり、肌の色が父より濃かったことも疑いの理由にされたという。
父が没したとき、ムハンマド・タキーはまだ8歳とも9歳ともいわれる幼さで、子どものイマーム就任を不安視する者もいた。一部のシーア派は父の弟アフマド・イブン・ムーサーをイマームと認め、別の一派はムーサー・カーズィムを最後のイマームとするワクフ派に加わり、スンナ派やザイド派に移る者もあった。これに対して支持者たちは、イエスが幼くして啓示を受けたというクルアーンの記述を挙げ、イマームの知識は年齢に関わらないと主張した。先代の死の瞬間に知識が移ったと説かれ、その奇蹟的なあり方が強調されている。弾圧が強く、シーア派の人口も広がっていたため、彼は主に書簡を通じて信徒と連絡をとり、各地に置いた代理人たちに信徒の用件を扱わせたという。この代理人の網は先代のイマームの時代に作られ、しだいに政治的な性格を帯びたとされる。
アッバース朝のカリフ・マアムーンは若いイマームを庇護し、ムハンマド・タキーはマアムーンに従ってバグダードに住んだ。マアムーンはシーア派の蜂起との関わりを疑ってバグダードへ呼び寄せ、監視しようとしたともいわれる。娘のウンム・アル=ファドルとの結婚は817年とも819年ともされ、実際の婚姻は830年になってからと伝えられる。バグダードでは、その若さに比べて驚くほど豊富なイスラームの知識で知られるようになり、著名なウラマーとの公開討論でそれを示したという。アッバース朝側は、この結婚と宮廷入りが自らの利益に反すると見て、学問的な討論の場を設けて評判を落とそうとしたともいう。
8年のバグダード生活ののち、ムハンマド・タキーは妻とともにマディーナへ戻ったが、妻との関係は緊張していた。さらに833年にマアムーンが没し、跡を継いだ義弟のムウタスィムが即位すると、庇護者を失った彼とアッバース朝との関係は悪化した。835年、ムウタスィムは彼にバグダードへの召還を命じた。バグダードの豪奢な宮廷生活で身を持ち崩すことを望んだためだとされる。ムハンマド・タキーは息子のアリー・ハーディーとその母をマディーナに残して赴いた。ところが、むしろ著名な学者、論者として人気を博したという。
ムハンマド・タキーは835年11月に急逝した。25歳であり、歴代のイマームのなかで最も若かった。ムウタスィムに唆された妻ウンム・アル=ファドルによる毒殺だと考えるシーア派の人々が多く、スンナ派の語り手の一部にも、ムウタスィムの教唆による毒殺を伝える者がいる。遺骸はバグダードのクライシュ族の墓地に、祖父ムーサー・カーズィムと並んで葬られた。この地は現在、聖地カーズィマインとして知られる。息子にはアリー・ハーディーとムーサー(ムバルカア)がいる。
同じ年に亡くなった人物
- 空海 (835年没)
- ベランジェ (トゥールーズ伯) (835年)
同じ地域に関係する人物
- Abu Hayyan al-Tawhidi (1023年没)
- ムッタキー (968年没)
- コルマール・フォン・デア・ゴルツ (1916年没)
- アッ=マーワルディー (1058年没)
- ザーヒル (1226年没)