伝記
アルフレッド・ド・ヴィニーは、1797年3月27日、フランス中部トゥーレーヌ地方のロッシュに生まれた作家、劇作家、詩人で、伯爵の称号をもつ貴族である。フランス・ロマン主義の一員として知られる。父レオン・ピエールは七年戦争に従軍した元軍人の将校で、このとき六十歳で、体も不自由だったという。母アメリーは提督の娘で、四十歳になるまでに三人の子を幼くして亡くしており、アルフレッドは家系を継ぐ最後の希望だった。古い軍人貴族の家柄だったが、革命の余波で一家は財産と収入の多くを失い、彼が二歳になる前にロッシュを離れてパリへ移った。母はルソーの『エミール』の教えどおりに息子を育て、冷水浴や体操、フェンシング、数学や音楽、絵画を学ばせたといい、父は古典を読み聞かせ、昔の話を語って、家柄への強い意識を植えつけたとされる。
ヴィニーはナポレオンの帝政に期待をかけ、軍人としての成功を夢見たが、1814年に近衛騎兵の少尉として入隊したときには、すでに復古王政が始まっていた。1815年に近衛騎兵隊が解散されると近衛歩兵隊に移り、1823年に大尉に昇進して、スペイン戦争では前線に派遣された。1828年に除隊したが、十五年ほどの軍歴で実際に戦うことはなかったとされる。私生活では1826年にイギリス人女性リディア・バンブリーと結婚した。パリに出るとロマン主義者たちのサロン(セナークル)の常連になり、1815年から書いていた詩を、1822年に最初の詩集として刊行した。1826年には「モーセ」「洪水」「角笛」などを増補して『古今詩集』と題し、1837年にもさらに詩篇を加えた。
散文と戯曲でも名を上げた。歴史小説『サン=マール』(1826年)は、独自の理想主義的な視点から歴史の出来事に改良を加えて一貫した物語にしたもので、フランスの歴史小説の発展に寄与した。『ステロ』(1832年)や『軍隊の服従と偉大』(1835年)といった小説のほか、シェークスピアの『オセロー』を翻案した『ヴェニスのムーア人』(1829年)、ルイ13世時代を題材にした史劇『アンクル元帥夫人』(1831年)がある。1835年の『チャタートン』は、自殺した十八世紀イギリスの青年詩人を主人公にして大成功を収めた。この劇で女主人公キティ・ベルを演じたコメディ・フランセーズの女優マリー・ドルヴァルにヴィニーは魅了された。のちに二人は別れ、1838年には母の死も重なって、ヴィニーは初めて領地のメーヌ・ジローに居を移し、病床にある妻の世話をしながら孤独を味わった。
1845年、五度目の挑戦でアカデミー・フランセーズに選ばれたが、ルイ=マティウ・モレから猛烈な反対を受けた。1848年にはシャラント県から下院議員選挙に出馬したが、落選している。以後は妻とともにメーヌ・ジローで過ごすことが多く、主にパリで暮らしたものの、書くことは少なくなり、読んで考える日々を送った。晩年は孤独で、胃の癌により一年あまり病床に伏し、1863年9月17日にパリで死去した。モンマルトル墓地に葬られた。詩集『運命』は死後の1864年に刊行され、『詩人の日記』も1867年に出版された。詩は天才の孤独や人々の無関心、女の裏切り、神の沈黙、それに対するストイックな諦念を主題とし、残した詩は四十点ほどだが、「モーセ」「狼の死」「牧人の館」「オリーヴの園」など十点ないし十二点は、フランス詩の中でも最良に数えられている。
同じ年に亡くなった人物
- サイード・パシャ (1863年没)
- コンスタンティン・ヴィルヘルム・ランベルト・グロージャー (1863年没)
- フレデリク7世 (デンマーク王) (1863年没)
- クレメント・クラーク・ムーア (1863年没)
- ウィリアム・ジョン・バーチェル (1863年没)
同じ地域に関係する人物
- ミシェル・アダンソン (1806年没)
- クロード・レヴィ=ストロース (2009年没)
- ポルフィリオ・ルビロサ (1965年没)
- ジョルジュ・スペナール (1983年没)
- フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル (1820年没)