伝記
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワは、1798年4月26日にパリ近郊のシャラントン(現在のサン=モーリス)で生まれた、十九世紀フランスのロマン主義を代表する画家である。姓は「ドラクロア」とも表記される。父は外交官だったが、ウィーン会議でフランス代表を務めたタレーラン=ペリゴールが実の父親だという仮説があり、かなりの根拠があるとされる。
新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲランに入門し、先輩画家アントワーヌ=ジャン・グロの強い推薦もあって、1822年に『ダンテの小舟』でサロン(官展)に入選した。1824年のサロンには『キオス島の虐殺』を出品した。当時実際に起きた事件を題材にした作品で、サロンでは賛否両論を巻き起こし、グロは「これは絵画の虐殺である」とまで酷評したが、作品は政府の買上げとなった。1830年の七月革命に際しては、有名な『民衆を導く自由の女神』を制作している。この絵はドラクロワ自身の肖像とともに、旧フランスの100フラン紙幣に描かれたこともあった。
1832年にはフランス政府の外交使節に随行する記録画家としてモロッコを訪れ、1834年の『アルジェの女たち』は、この旅のデッサンをもとに描かれた。1830年代以降は、リュクサンブール宮殿やパリ市庁舎など、政府関係の大建築の装飾を数多く手がけ、1863年8月13日に死去するまで旺盛に制作を続けた。アトリエ兼自宅は、国立のウジェーヌ・ドラクロワ美術館となっている。
テオドール・ジェリコーに影響を受け、その夭折を嘆いたという。ドラクロワがアカデミー・デ・ボザールへの入会を許されたとき、新古典主義の主導者ドミニク・アングルは「私はこの愚かな世紀と決別したい」と述べた。劇的な画面構成と華麗な色彩表現は、ルノワールやゴッホなど多くの画家に影響を与えた。1822年に始まった日記は、1824年に中断し、1847年に再開されて死の年まで続いた。絵画、詩、音楽についての考察や、ジョルジュ・サンド、ショパンらとの議論が記され、十九世紀半ばのパリの生活の証言にもなっている。
一方、ドラクロワの素描には、作家の同定をめぐって多くの議論がある。発端は1966年のジョンソンの論文で、弟子ピエール・アンドリウの天井画を取り上げ、パリの旧市庁舎「平和の間」の天井画のための素描と考えられてきたいくつかの作品を、アンドリウの習作と論じた。死後にアトリエに残された作品群には偽のアトリエ印が確認される一方、素描の多くが十九世紀末から二十世紀初頭に絵画市場に出回ったため、現在ではルーヴルをはじめ各地の美術館で再検討が行われているが、研究の余地が多く残っている。ドラクロワは美術辞典の草稿や、絵画についての記事も書いた。
同じ年に亡くなった人物
- Juan Francisco Giro (1863年没)
- Juan Francisco de Vidal (1863年没)
- イグナシオ・コモンフォルト (1863年没)
- ゲリット・スヒンメルペニンク (1863年没)
- ウィリアム・ハミルトン (第11代ハミルトン公爵) (1863年没)
同じ地域に関係する人物
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- アンヌ・ヴァライエ=コステル (1818年没)
- ルイーズ・ファランク (1875年没)
- ピエール・ド・マリヴォー (1763年没)
- フィリップ=アントワーヌ・メルラン・ド・ドゥーエー (1838年没)