伝記
ムハンマド・イブン・イドリースは、モロッコを支配したイドリース朝の第3代君主である。在位は828年から836年とされる。第2代のイドリース2世の長男で、12人いた兄弟のなかで最年長だった。系譜は祖父イドリース1世、アブドゥッラー、ハサン・ムサンナーを経て、預言者ムハンマドの孫ハサン・イブン・アリーにさかのぼるとされる。母はベルベル人の名門ナフザ族の出身で、自由身分の女性だったと伝えられる。外見については、色黒で背丈がよく、顔立ちの整った巻き毛の青年だったと記され、金髪で巻き毛だったという記述もある。
828年に父が没すると、ムハンマドは父の遺言を受けて後を継いだ。即位の誓いは、父の死から3日後に行われたとされる。ところが父ほどの才智がなく、ベルベル人の支持を得られなかったともいわれる。当時のイドリース朝は中央集権的な統治体制をとっていたが、ムハンマドは祖母のカンザの助言に従って、領土を兄弟たちに分け与えた。首都のフェズは自らが握り、残りの地方を年長の弟たちに任せたのである。カーシムにはタンジェ、セウタ、テトゥアンなどが、ウマルにはティーカースやトルガなどのサンハージャ族とグマーラ族の地が与えられた。ほかにダーウードにはハワーラ族やタザ周辺、ヤフヤーにはアシラやララシュ、イーサーにはサレとアズムール、ハムザにはワリリ、アフマドにはメクネスとタドラ、アブドゥッラーにはアグマートやスース地方が任された。年少の弟たちは幼かったので、ムハンマドと祖母が面倒を見たという。トレムセンは従兄弟の統治に残された。
はじめのうち、弟たちはよく務めを果たし、国境を守り、街道の安全を保ったので、国は安定していた。しかしその平穏はまもなく乱れた。サレとアズムールを治めていた弟のイーサーが叛旗をひるがえし、アズムールで自らの名を唱えさせたのである。ムハンマドは、近くにいたタンジェのカーシムに鎮圧を命じたが、カーシムは断った。そこでウマルに頼むと、ウマルは大軍を集め、ムハンマドが送った千騎の援軍とともにイーサーを破り、その領地を手に入れた。ムハンマドはその功に報い、獲得した土地をそのままウマルに与えた。さらに命令を拒んだカーシムの討伐も命じられたウマルは、タンジェ付近でカーシムを破り、その領地も獲得した。カーシムはその後、大西洋岸に退いて隠者として暮らしたという。ウマルは兄に忠実に仕えたが、834年または835年に没したと伝えられる。ウマルの子孫は後にスペイン南部で栄えたハンムード朝につながる。
領土の分割は、ムハンマドの権威を弱め、兄弟間の争いを招いた。これが王朝の衰退の原因になったとされる。ただし、兄弟間の緊張は、後に本格的な後継者争いの戦争には至らなかったともいわれる。
ムハンマドは836年の3月か4月にフェズで世を去り、父と弟ウマルの墓の近くに葬られた。治世は8年と1か月だったとされる。妻はイエメン系アラブ人で、アンダルス出身のラキーカ・ビント・イスマーイールだった。後を継いだのは息子のアリーで、当時わずか9歳だったという。アリーの跡は同じくムハンマドの息子ヤフヤーが継いだ。後には、ウマルとカーシムの子孫が、ムハンマドの血統が絶えた後のイドリース朝の指導権をめぐって競うことになった。また、この権限の委譲は、のちの世代でイドリース朝の支配下にあったマグリブの一部が分裂していく原因になったといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- マラミル (836年)
- ティツク・デツェン (836年没)
- ジョヴァンニ・パルテチパツィオ1世 (836年)
- ワラ (コルビー修道院長) (836年没)
同じ地域に関係する人物
- アフマド・アル=ティジャニ (1815年没)
- フェルナンド聖王子 (1443年没)
- アフマド・マンスール・ザハビー (1603年没)
- ユースフ・ベン・ハサン (1927年没)
- イブン・バットゥータ (1368年没)