HISTORICAL PERSON · 1869年没

エクトル・ベルリオーズ

フランスのロマン派の作曲家。『幻想交響曲』や『死者のための大ミサ曲』で知られ、大規模な編成と色彩的な管弦楽法で新しい音楽を切り開いた。

生涯
1869年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(ラ・コート=サン=タンドレ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

エクトル・ベルリオーズは、1803年12月11日にフランス南部イゼール県のラ・コート=サンタンドレに生まれ、1869年3月8日に没したロマン派の作曲家である。『幻想交響曲』でよく知られ、『死者のための大ミサ曲』(1837年)に見られるように、楽器編成の大規模な拡張や色彩的な管弦楽法によって、ロマン派音楽の動向を先取りした。父は開業医のルイ=ジョセフで、ベルリオーズは長男として育てられた。学校が閉鎖されたため、18歳になるまで家庭で父から教育を受け、ラテン語、文学、歴史、地理、数学、初歩の音楽を学んだ。14歳のころ、父の机の引き出しで見つけた楽器を吹く練習を始め、父はフルートを買い与え、15歳でギターも習い始めた。作曲は独学で学び、ラモーの理論書は難解だったが、カテルの『和声概論』は徐々にのみ込んでいったという。

1821年にバカロレアに合格し、家業を継ぐ名目でパリの医科大学に入学した。しかし解剖学の途中で気がひるんでしまい、オペラ座に通うようになり、1822年に父の反対にもかかわらず医学を捨てて音楽を学び始めた。1823年にパリ音楽院に入学し、ル・シュウールにオペラと作曲を学んだ。早くからロマン主義運動に親しみ、デュマ、ユーゴー、バルザックらと親交を結んだ。1825年にサン・ロッシュ寺院で初演した『荘厳ミサ曲』は、未熟さのため一度は失敗したが、手直しして再演され成功を収めた。1827年からローマ賞に挑戦し、同年にはシェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンの舞台を見て衝撃を受けた。1828年にはアブネック指揮の演奏会でベートーヴェンの『英雄』と『運命』を聴いて大きな啓示を受けた。

1830年に『幻想交響曲』を完成させ、4度目の挑戦でローマ賞を受賞した。12月5日の初演は大成功となり、ピアニストのマリー・モークとも婚約した。ところが1831年、ローマ到着直後に、婚約者がピアノ製作者の長男と結婚するとの知らせが届いた。ベルリオーズは怒りのあまり、『回想録』によれば女装して復讐しようとパリへ向かったが、国境付近で我に返って思い留まり、ニースで療養してローマに戻ったという。この間に『幻想交響曲』の続編にあたる『レリオ』の構想を始めている。

1832年に帰国し、1833年にはスミッソンと再会して、両親の反対を押し切って結婚した。ショパンやパガニーニとも知り合い、パガニーニの依頼で交響曲『イタリアのハロルド』を書いた。1837年のレクイエムは成功したが、1838年のオペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の初演は不評に終わった。1839年に劇的交響曲『ロメオとジュリエット』を完成し、借金に苦しむなかで音楽院の図書館員となった。1842年以後はドイツやロシアなどへ演奏旅行に出て、各地で大きな反響を呼んだ。1844年にはパリの産業館で、480人の楽団員と500人の合唱団員による『フランス讃歌』の演奏会を開き、大成功を収めたものの、経済的にはわずかな利益にとどまった。1846年の『ファウストの劫罰』の初演は成功せず、多額の負債を負ったが、友人たちの尽力で破産は免れた。1847年にはロシアへ赴き、サンクトペテルブルクとモスクワの演奏会で喝采を浴び、4万フランという初めての大金を手にした。1852年には音楽院の図書館の館長に任命されている。

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