伝記
賈島は、中国唐代の詩人である。大暦14年(779年)に生まれ、会昌3年(843年)に没した。字は浪仙、または閬仙といい、幽州范陽県(現在の河北省保定市涿州市)の出身である。貧しい家に育ち、生活の手立てを欠いたまま若い頃に故郷を離れたとされる。やがて僧となり、法号を無本と称した。碣石山人と自称したともいわれ、北の恒山で僧になったのは793年頃とされる。
僧であった賈島は、洛陽に出て韓愈に文を学んだ。韓愈はその才学を認め、還俗して進士の試験を受けるよう勧めたという。賈島はすぐには寺を離れず、范陽の寺々で経典を読み、試験の準備を重ね、詩の作成にも励んだ。806年の冬には長安に上り、韓愈や張籍を訪ねた。韓愈の紹介で孟郊とも知り合い、韓愈、孟郊、張籍、李賀らとともに詩人の集まりに連なった。三十三歳ごろに僧の暮らしを離れて俗人に戻り、下級の役職に就いて暮らしを支えながら、812年に初めて科挙に挑んだが失敗した。その後も落第を重ね、思うにまかせぬ日々が続いた。821年には姚合のもとで、朱慶余、顧非熊、李洞らとともに詩を作ったとも伝わる。
賈島の名を後世に残したのは、苦吟の逸話である。「李欵の幽居に題す」の一句で、僧は推す、とするか、僧は敲く、とするかを思い悩みながら歩くうち、ロバに乗っていたともいわれるが、韓愈の行列に突き当たった。事情を打ち明けると、韓愈は即座に「敲く」がよいと答え、これを機に賈島は韓愈の門下に入ったという。ここから、文章の字句を練り直すことを「推敲」と呼ぶようになった。また「独行潭底影、数息樹影身」の二句を三年かけて練り上げ、「一吟双涙流る、知音もし賞せずんば、帰りて故山の秋に臥せん」と自ら注したという。小杉放庵は、自分のことを殊更に重く考える癖のある人と評している。
科挙の及第と官途には、不遇が付きまとった。進士の試験を韓愈に薦められながら一度は落ち、宰相が憎んでいるせいだと人にそそのかされて腹を立て、新居を建てたばかりの宰相裴度に宛てて誹謗の詩を作ったことがあるといい、これが不評を買って出世を妨げたと伝えられる。一方、822年に進士となったが、苦しい道のりを経て「病蝉」の詩で官人たちを批判し、そのために疎まれて遠方へ遣られたとする説もある。いずれにせよ、大和9年(835年)に長江県の主簿となり、そこから「賈長江」とも呼ばれた。会昌元年(841年)には普州の司倉参軍に移り、さらに司戸参軍に任じられたが、赴任の命を受けないうちに普州で没した。牛肉を食べ過ぎたのが原因だという話もある。享年は65とされる。別の説では、武宗の時代に倉庫の長から財務の役へ移るはずだったが、その前に普州の官舎で亡くなったという。また、普州の長官から校正を扱う役所の官に迎えようと申し出られたが、これを断ったとも伝わる。
官吏としては不遇で貧しい生涯だったが、賈島は韓愈、張籍、姚合、孟郊ら名だたる詩人との交わりを絶やさなかった。僧であった経歴から、庵にも寺にも迎えられたという。北宋の蘇軾は、孟郊と並べて「郊寒島痩」と評した。五言律詩に特に優れ、著書に『長江集』10巻がある。この詩集には390首余りの詩が収められているとされる。唐代の李洞のように賈島の詩を慕い、その銅像まで造って仕えた人もおり、『全唐詩』には晩唐の詩人が賈島を称えた詩が少なくとも38首収められている。
同じ年に亡くなった人物
- マダーイニー (843年没)
- ユーディト・フォン・アルトドルフ (843年没)
- Ciniod II (843年)
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