HISTORICAL PERSON · 1865年没

ピエール・ジョゼフ・プルードン

フランスの社会主義者・無政府主義者で、無政府主義の父といわれる。『財産とは何か』で「財産、それは盗奪である」と論じ、1848年に国民議会議員となったが、著作で投獄や亡命を経験した。

生涯
1865年没
死亡地
フランス共和国(パリ / パッシー)
出生地
フランス共和国(ブザンソン)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ピエール・ジョゼフ・プルードンは、1809年1月15日にブザンソン郊外のムイエールで生まれたフランスの社会主義者、無政府主義者であり、無政府主義の父といわれる。父は醸造職人で樽製造職人でもあった。8歳ごろから宿屋の食糧係として働き始め、コレージュの6年生に通学生として編入されたが、仕事のために授業を休みがちで、教科書を筆写したり街の図書館に通ったりして、ほぼ独学の状態だった。学業を完全に終えることはなかった。19歳からは自分で生計を立てねばならず、ブザンソンの印刷所で校正係になった。教会用のラテン語訳聖書の校正をするうちに神学の知識を身につけ、ヘブライ語を覚えたという。言語学も独学し、1837年に最初の著作『一般文法論』を自費出版して、奨学金を受け、3年間パリに遊学した。

1839年の『日曜礼拝論』は、財産平等の理想に基づく社会改革思想だとして聖職者会議に忌避され、発禁処分を受けた。1840年6月に『財産とは何か』が出版されたが、「財産、それは盗奪である」などの過激な表現のためにブザンソン・アカデミーが出版の認可を取り消した。プルードンは撤回を拒否した。1841年に『ブランキ氏への手紙』、1842年に『有産者への警告』が出たが、後者は司法官憲に押収されて起訴を受けた。1843年に印刷所を辞め、1847年10月までリヨンの商会で事務員・法律顧問を務めた。実務に妨げられながらも経済学者と交わり、1843年に『人類社会における秩序の創造』、1846年に『経済的矛盾の体系、または貧困の哲学』を著した。この頃ロシアのバクーニンやゲルツェンと知り合い、バクーニンとはヘーゲルの弁証法について徹夜で議論した。1844年以来数回会っていたマルクスから共産主義通信委員会の通信員になるよう頼まれたが、教条主義や権威主義的な傾向を危惧して多くを留保し、のちに二人のあいだには軋轢が生じたとされる。

1848年の二月革命ではテュイルリー宮殿の無血占領に参加し、『人民の代表』『人民』『人民の声』などの新聞を発刊して、人民銀行と相互主義的な交換組織を試み、6月の補欠選挙で国民議会議員に選ばれた。1849年に大統領ルイ・ナポレオンを自分の新聞で攻撃したため、3年の禁固と1万フランの罰金を宣告された。獄中で裁縫師ユフラジ・ピエガールと結婚して子をもうけ、『一革命家の告白』や『十九世紀における革命の一般理念』を執筆した。出獄後の1858年に出した『革命の正義と教会の正義』は6,000部売れたが、公共道徳・宗教・国家を攻撃したとして押収され、再び禁固3年と罰金を宣告されたため、家族とともにブリュッセルへ亡命した。1862年の特赦で帰国し、翌年には『連邦主義的原理と革命党再建の必要について』を執筆した。

財産について、彼は「財産は窃盗である」と述べたが、これは私的な所有のすべてを否定するのではなく、他人を隷属させて搾取する形の所有を批判する言葉であったとされる。自分で使用し占有している範囲を認め、地代や利子や利潤といった不労所得を不当とし、各人や小集団が自らの生産手段を持つことを唱えた。マルクスとは異なり、国家が財産を所有することも望まなかった。一方で、女性は家事に専念すべきだとして婦人参政権を否定し、労働者のストライキ権も認めなかったとの批判もある。遺著『労働者階級の政治的能力』を口述して完成し、1865年1月19日、パリ・コミューンの5年前にパッシーで心臓病により死去した。

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