伝記
ハインリヒ・フリードリヒ・エミール・レンツは、1804年2月12日にロシア帝国の都市ドルパット(のちのエストニア・タルトゥ)で生まれたバルト・ドイツ人の物理学者である。ハインリッヒ・レンツとも表記される。中等教育を終えた1820年にドルパット大学で物理学と化学を学んだ。
学生を終えたころ、1823年から1826年にかけて行われたオットー・フォン・コツェブーの第3回世界一周航海に参加し、各地の海水の水質や物理的性質、気候条件を調べた。成果は1831年にサンクトペテルブルク科学アカデミーの紀要に発表された。1829年にはカフカース遠征に加わり、植物学者カール・アントン・フォン・メイヤー、昆虫学者エドゥアール・メネトリエ、アドルフ・テオドール・クッファーらと同行した。1830年から翌年にかけては、ペトリ学校とミハイロフスキー砲兵学校で教えた。やがてサンクトペテルブルク大学で働くようになり、ファラデーの実験を自ら追試している。
電磁気学の研究を始めたのは1831年である。1833年には、温度が上がると金属の抵抗が増すことを観察し、ペルティエ効果も研究した。「磁界の変化によってコイルに発生する起電力はコイルを貫く磁力線の変化に比例し、発生する電流の向きは磁力線の変化を妨げるような向きとなる」という内容のレンツの法則を見いだしたのも、この1830年代のことで、1833年とも1834年ともいわれる。この法則は、誘導電流の向きについて述べたもので、エネルギー保存の帰結でもある。当時、同じ分野でイギリスのファラデーやアメリカのヘンリーも似た発見をしていたが、結果を量的に整理しきれなかったのに対し、レンツは研究のあらゆる段階を丹念に記録し、後の研究者が引用しやすい形に残したと評される。
1842年には、ジュールとは別に、のちにジュール=レンツの法則と呼ばれる法則を独立に発見した。これは電気回路の抵抗が電気エネルギーを熱に変える速さを定量的に示すものである。また、モーリッツ・フォン・ヤコビが発明した電気鋳造の技術の発展にも一部かかわり、初期の電気鋳造彫刻としては、レンツが電気鋳造でつくったメダルがあげられる。インダクタンスの記号「L」は、彼の電磁気学の先駆的な業績にちなんで選ばれたとされる。
1840年から1863年まで、サンクトペテルブルク大学で数学・自然科学の学部長を務め、1863年からは亡くなるまで同大学の学長であった。1865年、脳卒中に襲われ、滞在中のローマで2月10日に60歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・ローワン・ハミルトン (1865年没)
- Jose Maria Perez de Urdininea (1865年没)
- ウィリアム・シャープ・マクリー (1865年没)
- Evangelos Zappas (1865年没)
- メルヴィーユ (1865年没)
同じ地域に関係する人物
- プブリウス・クラウディウス・プルケル (紀元前249年の執政官) (紀元前240年代没)
- Mirza Melkum Khan (1908年没)
- パウルス3世 (ローマ教皇) (1549年没)
- ピノ・カルーソ (2019年没)
- ボニファティウス8世 (ローマ教皇) (1303年没)