伝記
プブリウス・クラウディウス・プルケルは、第一次ポエニ戦争期の共和政ローマの政治家・軍人である。名門クラウディウス氏族の出で、紀元前249年の執政官を務めた。コグノーメンのプルケルは「美しい」「麗しい」を意味し、クラウディウス氏族でこの名を最初に名乗った人物とされる。生没年は分かっておらず、没年は紀元前249年とも紀元前246年ともいわれ、紀元前246年より前に亡くなったとする見方もある。
父については、紀元前312年の監察官としてアッピア水道とアッピア街道の建設を主導したアッピウス・クラウディウス・カエクスの子とされることが多い。一方で、紀元前264年の執政官アッピウス・クラウディウス・カウデクスの子だった可能性も指摘されている。後者の場合、紀元前240年の執政官ガイウス・クラウディウス・ケントはおそらく兄弟にあたる。のちに紀元前212年の執政官となるアッピウス・クラウディウス・プルケルは、その子である。
経歴としては、紀元前253年にアエディリス・クルリスを務め、紀元前249年にルキウス・ユニウス・プッルスとともに執政官に選ばれた。この年は第一次ポエニ戦争の16年目にあたる。ローマ軍は前年からシチリア西岸のカルタゴ軍根拠地リリバエウムを包囲しており、プルケルはその封鎖にあたっていたローマ艦隊の指揮を任された。彼はリリバエウムから、カルタゴ方の艦隊が拠るドレパナを攻めることにした。同僚のプッルスはこのとき、島の東側から別に行動していた。ところが戦闘の前の鳥占いで、神聖な鶏が餌をついばもうとしなかった。不吉な兆しであったが、これを無視して攻撃に出たと伝えられる。キケロ、スエトニウス、ウァレリウス・マクシムスによれば、彼は「食べないのなら水なら飲むだろう」と言って、鶏を海に投げ込んだという。
結果は大敗であった。ローマ艦隊はドレパナ沖の海戦でカルタゴの提督アドヘルバルに敗れ、123隻のうち93隻と2万人を超える水兵を失ったとされる。プルケル自身は逃げ延びた。同じ年、同僚執政官プッルスの艦隊も嵐とカルタゴ軍の攻撃で壊滅し、ローマは海上で大きな痛手を負った。元老院は彼をローマに呼び戻し、執政官の職を離れて独裁官を任命するよう命じた。彼が指名したのは、解放奴隷の子であるマルクス・クラウディウス・グリキアだったが、この任命はただちに取り消された。のちに護民官から反逆罪で訴えられ、不敬と無能を問われた。厳しく罰せられたとする伝えがある一方、嵐のために裁判が中断されて刑が罰金に変わったとも、二重の訴追が許されないために死刑や体罰を免れたともいわれる。結果として科されたのは12万アスの罰金で、失われた船1隻につき1,000アスの計算だとされる。
敗北と有罪の屈辱ののち、プルケルは長く生きなかった。自ら命を絶った可能性も語られている。紀元前246年ごろには、ローマの雑踏で馬車が動けなくなった妹のクラウディアが、兄が生き返ってまた艦隊を率いてくれればこの混雑も少しはましになるのに、と口にした。これが民衆への侮辱とされ、彼女は25000アスの罰金を科された。なおクラウディアは、ウェスタに仕える巫女だったともされる。この発言には別の伝えもあり、兄がもう一度戦いに負けて、貧しい市民をもっと溺れさせてくれればよいのに、と言ったというものである。いずれの場合も、兄の敗北を引き合いに出した発言である。
同じ年に亡くなった人物
- カリマコス (紀元前240年没)
- ルキウス・ユニウス・プッルス (紀元前240年代没)
- アルシノエ1世 (紀元前240年代没)
- アルケシラオス (紀元前240年代没)
同じ地域に関係する人物
- インノケンティウス7世 (ローマ教皇) (1406年没)
- テオドルス2世 (ローマ教皇) (897年没)
- ガイウス・サッルスティウス・クリスプス (紀元前35年没)
- Giulio Sarrocchi (1971年没)
- ウィクトル1世 (ローマ教皇) (199年没)