伝記
セルギウス2世は、9世紀半ばのローマ教皇で、歴代の第102代にあたる。在位は844年1月から死去する847年1月27日までの約3年であった。教皇としての在位の始まりは844年1月25日とも伝えられる。生年は分かっておらず、800年ごろのローマ生まれともいわれるが、確かなことは伝わらない。出身はローマで、家は貴族であり、教皇を二人出した家系ともされる。若いころは聖歌学校で教育を受け、教皇パスカリス1世のもとで聖マルティノ・聖シルウェステル教会の枢機卿司祭に叙任された。さらにグレゴリウス4世の時代には首席司祭に昇った。
844年1月にグレゴリウス4世が世を去ると、後継者を決める予備の会合で、貴族層はセルギウスを推した。一方、ローマの民衆は助祭のヨハネを支持し、民衆は力ずくでヨハネを教皇の座に就けようとしたともいわれる。このヨハネは対立教皇ヨハネス8世とも呼ばれる。民衆側の動きは押さえ込まれ、ヨハネは修道院に閉じ込められたとされ、セルギウスがヨハネの命を救うために介入したとする記述もある。こうしてセルギウスは、フランク王国側の承認を求めないまま叙階された。
しかし、824年のローマ憲章には、皇帝の承認を得るまで教皇を叙階してはならないという規定が含まれていた。皇帝ロタール1世はこの逸脱に強く反発し、息子のルートヴィヒを、新たにイタリア王に任じたばかりの身で軍とともにローマへ送った。ローマへの侵攻すら辞さない圧力であったが、最終的には折り合いがつき、セルギウスはルートヴィヒにイタリア王(ロンバルディア王)の冠を授けた。ただし、教皇は求められたすべてに応じたわけではなく、皇帝への忠誠の誓いは皇帝本人の前でなければ行えないとして退けたとされる。なお、冠を授けた相手はロタール1世ともいわれ、この点には食い違いがある。
在位中のローマは苦難の時代であった。聖職の売買がはびこり、教皇の権威は少しずつ揺らぎ始めたという。セルギウスは弟のベネディクトとともに、教会の役職を高値の入札者に与えて建築の資金を集めた。その資金で、教会や水道、ラテラノ大聖堂などの整備を進め、ローマの再建にも力を注いだとされる。ローマの聖階段の修復も彼の事績とされる。『教皇列伝』のある版は、教皇が食卓の楽しみを好み、統治の実務を弟に任せ、痛風の発作に悩まされたと伝えるが、ほかの版の人柄の描写と食い違うため、誇張の可能性も指摘されている。
846年、ローマの郊外は荒らされ、同年8月にはイスラム教徒のサラセン人がオスティアとポルトゥスに迫り、城壁の外にあった聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂を略奪した。市民は神の怒りを招いたと嘆いたと伝わり、教皇と市民はアウレリアヌス城壁の内側に隠れて見ているほかなかったとされる。襲撃の意図を事前に知らされていたのに、備えが不十分だったと見る評価もある。サラセン人はのちにガエータで決定的に敗れたという。セルギウスは高齢で教皇に選ばれており、アクイレイアとグラードの総大司教の間の調停を行っている最中の847年1月27日に死去し、後をレオ4世が継いだ。2009年の映画では、俳優ジョン・グッドマンがセルギウスを演じた。
同じ年に亡くなった人物
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