伝記
ディオニュシオス1世は、大ディオニュシオスとも呼ばれる、シチリア島の都市シュラクサイ(現在のシラクサ)のギリシア人僭主である。紀元前432年ごろ、あるいは430年ごろに生まれ、紀元前367年に没した。シチリア島内やイタリア半島南部の数都市を征服し、カルタゴの勢力がシチリア島へ及ぶのに抵抗して、シュラクサイを古代ギリシアの西方植民都市の中で最も有力なものに育てた。一方で古代の人々の間では、残虐で猜疑心が強く執念深い、最悪の暴君のひとりと見なされた。
最初は役人として働いていた。紀元前406年、カルタゴ勢がアクラガスを落とした際、その怒りの中で頭角を現したという。紀元前409年に始まったカルタゴとの戦争での手柄から、紀元前406年に軍の最高司令官に選ばれ、翌紀元前405年には全権を握って僭主となった。僭主になる過程では、襲撃を偽装して命を狙われていると見せかけ、護衛として600人の私兵を持つことを認めさせた。この私兵は1000人まで増やされ、市内の隅々に配置された。その結果、民主政が機能しているように見せるものはなくなった。紀元前403年には早くも、哲学的な立場から僭主政に反対する者たちに地位を脅かされた。
カルタゴとの戦いは紀元前397年から392年までのシケリア戦争で勝ち負けを繰り返し、カルタゴ勢をシチリアから一掃するという目論見は果たせなかった。死去の時点で、シチリアの少なくとも3分の1はカルタゴの支配下にあったという。イタリア半島ではレギオンを攻め、紀元前386年に長い攻城戦の末に陥落させて、住民を奴隷として売り飛ばした。アドリア海沿岸ではアンコーナ、アドリア、イッサ(ヴィス島)を貿易の拠点として建設し、この海はシュラクサイの海となったといわれる。エトルリア沿岸のカエレの神殿も略奪した。また、紀元前402年からシュラクサイを囲む城壁を築き、紀元前397年に完成させた。全長は約27キロメートルに及ぶ。スパルタはこの独裁を非難せず、両者の関係は良好で、スパルタの支配下の地域から傭兵を集めることも認められた。紀元前385年には、国を追われたエピロス王アルケタス1世が身を寄せてくると、モロシア人を攻めていたイリュリア人のもとへ2000人の重装歩兵と500揃いの甲冑を送った。モロシア人は1万5000人が殺され、アルケタスは王座に返り咲いた。
学芸を好み、歴史家ピリストスや詩人ピロクセノス、哲学者プラトンらを身辺に置いたが、彼らの扱いは気まぐれであった。自らも詩作をしたが、ピロクセノスに厳しく批判され、古代オリンピックの詩の競技では不評を買った。悲劇『ヘクトールの身代金』は、アテナイのレナイア祭で賞を得たとされる。死についてはいくつかの説がある。最も多い説では、のちにディオニュシオス2世として跡を継ぐ息子の差し金により、侍医に毒を盛られたという。別の説では、自作の悲劇の勝利を知って狂喜し、死に至るまで深酒をしたとも、その知らせの後に自然死したともいう。カルタゴとの戦費のために旧来の仲間を排除し課税したことへの報復だったとする見解もある。
その名は「ダモンとピュティアス」の伝説に登場し、「ダモクレスの剣」の伝説にも息子を通じて関わる。シラクサの石灰岩の洞窟は「ディオニュシオスの耳」と呼ばれる。ダンテの『神曲』では、血の川で苦しむ僭主として言及される。日本では、シラーの詩を太宰治が小説化した「走れメロス」の暴君のモデルとして知られる。
同じ年に亡くなった人物
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