伝記
ゲオルギオス・ハマルトロスは、ミカエル3世(在位840年から867年)の時代にコンスタンティノープルにいたビザンツの修道士で、重要な年代記の著者である。ハマルトロスは本名ではなく、著者が自作の題に記した自称である。その題は「さまざまな年代記作者や注釈者から集め、罪人ゲオルギオスが整理した簡潔な年代記」というもので、「罪人」を意味する語を名乗るのは、ビザンツの修道士にありふれた形であった。19世紀のドイツの学者カール・クルムバッハーはこの呼称を名前として使うことに異を唱え、「修道士ゲオルギオス」の形を提案して自らも用いた。この人物については、著作そのものに含まれる内容のほかに知られることがない。序文でミカエル3世を在位中の皇帝として語っていることから時代がわかり、自らを何度か修道士と呼んでいることから身分がわかる。生年や出身地は伝わらない。
年代記は4巻からなる。第1巻はアダムからアレクサンドロス大王までの世俗の歴史、第2巻は旧約聖書の歴史、第3巻はユリウス・カエサルからコンスタンティヌスまでのローマ史、第4巻は著者自身の時代までの歴史を扱う。第1巻にはアダム、ニムロド、ペルシア人、カルデア人、バラモン、アマゾンなど、驚くほど雑多な人々が並ぶ。第2巻も聖書の歴史を扱うはずが、プラトンや哲学者一般についての記述が多い。写本の多くには奥付があり、年代記は842年で終わっている。
序文で著者は理想と方針を述べている。古代ギリシアと同時代のギリシアの文献を用い、とりわけ教化を目的とする書物を調べ、読者を喜ばせる文飾や文学的な体裁よりも、真実に忠実であることを心がけ、膨大な材料のなかから最も有益で必要なものだけを選んだという。その結果、9世紀のコンスタンティノープルの聖職者にとって有益で必要と思われた事柄が論じられた。敬虔な考察や神学上の余談が多く、偶像の起源、修道士の始まり、サラセン人の宗教、そして直前に終わったばかりの聖像破壊論争が語られる。ほかの修道士と同じく聖像破壊派を憎み、その語り口の激しさからは、迫害の記憶がまだ新しかったことがわかる。教父たちの著作からの長い引用も多い。
この年代記は、813年から842年の時期について、同時代の独自の典拠となりうる、ほぼ唯一のものである。もう一つは、成立の時期しだいで「無名の筆者」と呼ばれる史料である。そのためこの部分は欠かせない。中世のこの種の年代記の常として、真剣に受け取るべきは同時代にほぼ近い出来事の記述であり、そのほかはビザンツの修道士の関心を示す例として興味深い。著者の考えは素朴で、聖像破壊派への憎しみゆえに、つねにその人々に不公平だとされるが、フォティオスとローマのニコラウスの間の分裂以前の最後の時期の歴史については、かなりの価値があるといわれる。
後世には、「シメオン・ロゴテテス」と呼ばれる人物をはじめ、何人かが続編を書き継いだ。この人物は、10世紀の聖人伝の著者として名高いシメオン・メタフラステスであろうとされる。最も長い続編は948年に達する。続編では宗教上の問題は後ろに退き、政治史への配慮が増し、言葉も平易になった。さらに価値の低い続編が1143年まで続く。年代記は教会スラブ語に訳され、グルジア語にもアルセン・イカルトによって訳された。これらの版を通じて、ネストルをはじめ初期のスラブの歴史家たちの源となった。広く読まれたため、無名の写字生が繰り返し改訂し並べ替え、原典の復元はビザンツ文献学で最も難しい問題の一つとされる。
同じ年に亡くなった人物
- フワーリズミー (850年)
- セプティマニア辺境伯ギヨーム (850年)
- 黄檗希運 (850年没)
- Wulfstan of Hedeby (850年)
- ラミロ1世 (アストゥリアス王) (850年没)
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