HISTORICAL PERSON · 850年没

黄檗希運

唐代の禅僧で、諡は断際禅師。百丈懐海の法嗣となり、鷲峰山に黄檗山黄檗寺を開いた。臨済宗の祖・臨済義玄の師で、宰相裴休に尊崇され、語録『黄檗希運禅師伝心法要』は裴休が編んだ。850年に示寂した。

生涯
850年没
死亡地
中華人民共和国(福建省 / Mount Huangbo)
出生地
唐
出典
世界地図
中華人民共和国(福建省)

伝記

黄檗希運(おうばく きうん)は、中国の唐代の禅僧である。諡は断際禅師とされ、臨済宗の開祖となる臨済義玄の師として知られる。没年は大中4年(850年)で、生年は伝わらない。福州閩県、すなわち現在の福建の出身とされる。生涯について確かなことは多くなく、その人柄や行跡の多くは、後に残された文章から窺うほかない。

幼いころに黄檗山の建福禅寺(現在の福建省の万福寺)で出家し、修行を積んだ。馬祖道一に学ぶことを強く望んだが、訪ねたときには馬祖はすでに亡くなっていたとされる。そこで塩官斉安の弟子となり、やがて首座にまで進んだ。その寺で、のちに皇帝となる宣宗と出会い、「粗行沙門」の称を与えられたと伝えられる。その後は百丈懐海のもとへ移り、その法を嗣いだ。さらに南泉普願の寺にもしばらく身を寄せ、そこで宰相の裴休と知り合ったという。裴休に請われて洪州の大安寺の住持となり、まもなくこの寺を黄檗と改めた。

洪州鍾陵、今日の江西省宜春市宜豊県にあたる鷲峰山に開いた黄檗山黄檗寺の山号は、修行時代を忘れないためにつけたものといわれる。身の丈は7尺あり、額には肉珠があったと伝えられる。身長を214センチとする説もあり、その大きな体が厳しい指導の助けになったとも語られる。人柄は素朴でさっぱりしていた一方、師としては厳格だったという。黄檗の名は、弟子の臨済との間の「黄檗三打」の故事でもよく知られる。師である黄檗との禅問答のなかで、弟子の臨済が大悟したとされる話である。臨済義玄がのちに臨済宗の祖となったことから、その師である黄檗も、この宗派の源流に連なる人として重んじられ、臨済宗の創始者のように見なされることもある。

教えの中心は、ただ一つの心という考え方であった。心も実体もともに空であると説き、この真理は言葉では伝えられず、目の前にあるそのものを、あれこれ考えた時点で誤るとした。ただし心という語にこだわったわけではなく、一心とは実のところ心ではないとしばしば語り、ときには絶対者という語も用いたという。禅は教えて身につくものではなく、直観で到達するしかなく、最大の妨げは概念による思考だと考えた。当時の禅では、悟りが段階的か突然かが大きな論点だったが、黄檗はこの問題にほとんど関心を示さず、悟りと心の世界との関わりや、その直観がどう伝えられるかに心を砕いたとされる。

大中3年(849年)には宛陵の開元寺で、時の宰相と会った。宰相が自分で書いた禅の解釈を差し出すと、黄檗は読まずに机に置き、しばらく黙したのち、わかるかと問うた。わからないと答えると、内なる体験で直接わかるほうがよい、言葉にしたものは我々の教えではないと答えたという。翌大中4年(850年)、黄檗山の寺で示寂した。髪塔は広業塔と呼ばれた。生前は希運、あるいは断際の名で知られ、黄檗という呼び名は、長く住んだ山の名にちなむ死後の名であるとされる。裴休は797年から870年を生きた高官で、黄檗の教えを受けた弟子でもあった。この裴休が黄檗の言葉を『黄檗希運禅師伝心法要』(857年成立)にまとめ、この書は92の説法や問答を、鍾陵録と宛陵録の2部に分けて収める。禅の伝統のなかでも深い内容をもつ書の一つとされる。『宋高僧伝』や『景徳伝灯録』にも、黄檗の伝記が収められている。圭峰宗密と並んで裴休に尊崇された黄檗の名は、『碧巌録』『無門関』『従容録』などの公案にも現れる。

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