伝記
マルクス・フリウス・カミッルスは、共和政ローマの軍人、政治家である。紀元前446年に生まれ、紀元前365年に没したとされる。独裁官に5回任じられ、ロムルスに次ぐ「ローマ第二の創建者」と称えられた。フリウス氏はラティウムの都市トゥスクルムの出で、早くからローマ社会に溶け込み、紀元前450年代にはすでに重要な家柄となっていた。父は執政武官を務めたルキウス・フリウス・メドゥッリヌスで、カミッルスという名は、宗教儀礼で神官に仕える少年を指す語に由来し、親族に最高神祇官を務めたクィントゥス・フリウス・パキルスがいたことに関わるとされる。兄にも執政官を務めた者がいる。プルタルコスによれば、フリウス氏はさほど有力ではなかったが、カミッルスは独裁官アウルス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスのもとで武勲を立て、のちにケンソルに任じられた。ケンソルとしては独身男と寡婦の結婚を推し進め、両親を亡くした人に課税するなどしたという。ほかにも、エクイ人やウォルスキ人との戦いで優れた兵士として働き、軍団の司令官にあたる執政武官を務め、長引く戦争で苦しくなった国庫を課税で立て直そうとした。
当時ローマは、エトルリア人の都市ウェイイと長い戦いを続けていた。ウェイイは高所にある守りの固い都市で、攻囲はおよそ十年に及んだとされる。戦争が不人気になった紀元前401年にカミッルスは初めて執政武官に選ばれ、紀元前398年にも再び選ばれた。紀元前396年、カミッルスはローマ軍を率いてウェイイを攻略した。ローマ市民は、設備の整ったウェイイへ首都を移そうと言い出したが、カミッルスは「ローマを捨てることはローマの神々を捨てることであり、ローマを離れれば我々はローマ市民ではなくなる」と述べて真っ向から反対した。
しかし彼は指揮官として非常に有能であった一方、強引で、物事をはっきり言う男でもあった。ウェイイの攻囲では有権者からなる軍団に、ローマ軍で初めてといわれる冬営を強いた。凱旋式は派手にしすぎたとされ、別の戦役では兵士が略奪を望んでいたのに無血開城させてしまった。こうして市民の人気は非常に低くなり、市民は彼に根拠のない罪をかけて追放しようとした。友人たちは、科される罰金を集める手伝いならできるが、追放に反対する票を集めるのは難しいと答えた。当時は自ら去った者の罪は問わない習わしがあったので、カミッルスはローマを去った。
紀元前387年、彼が去ってまもなく、ブレンヌス率いるケルト人のセノネス族が襲来し、ローマは滅亡寸前に追い込まれた。市民はこれを神の怒りと考え、カミッルスの言葉どおりになったと悔やんだ。カミッルスは散り散りになった市民をまとめ、ローマへ進軍した。そのころローマの一角に立てこもった市民は、ケルト人の王と、身代金と引き換えに兵を退かせる交渉をしていた。ケルト人が秤に細工をして稼ごうとし、ローマ人が指摘すると、「敗者に災いあれ」と答えたという。そこへ駆けつけたカミッルスは「ローマは金ではなく、剣でお返しする」と告げて戦い、ケルト人を散々に打ち破った。この言葉はその後ローマの国防の指針となり、ドミティアヌス帝の時代に至るまでの約400年、ローマが身代金と引き換えに捕虜の解放を求めた例はないとされる。
カミッルスは独裁官に任命されてローマの復興を任された。ローマが荒廃すると、ラティウム同盟の結束にひびが入り、各地で反乱が続出したが、彼は20年をかけてそれらをすべて鎮め、4度の凱旋式を挙げる名誉を受けたという。
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