伝記
ラーマ4世は、1804年10月18日に生まれたチャクリー王朝の第4代のシャム国王で、モンクットの名でも呼ばれる。父はのちにラーマ2世となるイッサラスントーン王子、母はシースリエントラーで、チャクリー朝初代のラーマ1世の孫にあたる。トンブリー王朝時代の旧宮殿で生まれ、1808年に弟のチュターマニ王子が生まれた。1809年に父がラーマ2世として即位すると、一家は王宮に移った。以後、二人の兄弟は王位に就くまで、それぞれ大きな殿下、小さな殿下と呼ばれた。
1824年、シャムの慣習に従って20歳で出家し、ヴァジラヤーノと名乗った。同じ年に父が亡くなり、本来なら彼が王位を継ぐはずだったが、貴族たちは年長で影響力も経験も勝る、側室の子のナンクラオ王子(のちのラーマ3世)を選んだ。王位は手の届かないものとなり、政治的な陰謀を避けるためもあって、彼は出家の身分を保った。そのまま即位までの27年間、寺院に属して学問を続け、経文の言語であるパーリ語とサンスクリット語を身につけた。国内を僧として旅するなかで、僧たちの間に戒律の緩みを目にして不適切だと考えた。1829年にはペッチャブリーで戒律を厳格に守る僧ブッダヴァンソと出会い、その姿に感銘を受けて宗教改革を志したとされる。1835年に戒律を重んじる改革運動を始め、それがタンマユット派へと発展した。1836年には現在のバンコク中心部にあるボウォンニウェート寺に入り、初代の住職となった。
この頃、宣教師や船乗りから英語、ラテン語、天文学を学んだ。近くに住むカトリックの司教パレゴワとは親しくなり、寺での説教に招いたという。キリスト教の道徳と成果には敬服したが、教義は理解できなかったとされ、のちに王として「人々に教えている行いは見事だが、信じさせている中身は愚かだ」と述べたと伝えられる。合理化された宗教こそ新時代にふさわしいと考え、俗信を排した仏教を建てようとした。ラームカムヘーン大王碑文を発見した人物でもある。
1851年に王位に就き、亡くなる1868年まで在位した。この間、西洋との関係を重んじた。弟のチュターマニをピンクラオ王として第二王に立て、同等の敬意を払うよう国に命じている。この治世でブンナーク家の権勢は頂点に達した。イギリス人のアンナ・レオノーウェンズを家庭教師に招いて、子弟に西洋の教育を受けさせたことは、小説『アンナとシャム王』に描かれ、のちの『王様と私』の元になった。ただしアンナに虚言癖があったため全面的には信用できないとされ、これらの映画や舞台はタイでは上映が禁じられている。1854年には清への朝貢をやめ、1855年にはイギリスとボウリング条約を結んで自由貿易を始めた。米の輸出が広がったため、中央平原に運河が多く築かれた。外国人の便宜のために、ニューロードも整備している。62人の子を残したとされる。
独学で修めた天文学で、1868年8月18日の皆既日食の場所と時刻を予測し、プラチュワップキーリーカン付近で観測して的中させた。観測地は、マラリアの蔓延する地域だったため、王もこれに感染し、同年10月1日に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- ホアキン・スアレス (1868年没)
- Franz Brendel (1868年没)
- クリスチアン・シェーンバイン (1868年没)
- ベルナルド・プルデンシオ・ベロ (1868年没)
- エドゥアルト・フリードリヒ・ペーピッヒ (1868年没)
同じ地域に関係する人物
- ラーマ5世 (1910年没)
- カルロ・ウルバニ (2003年没)
- ラーマ2世 (1824年没)
- ナラーティップポンプラパン (1976年没)
- ナラーティワートラーチャナカリン (2008年没)