伝記
ムタワッキルは、アッバース朝の第10代カリフ(在位847年~861年)である。822年3月に生まれ、861年12月11日に没した。名はジャアファル・イブン・ムハンマドで、通称をアブー・アル=ファドルという。父は第8代カリフのムウタスィム、母はペルシア人の奴隷とも、ホラズム出身の奴隷女性シュジャーともされる。兄に第9代カリフのワースィクがいる。誕生は伯父マアムーンの治世で、アッバース朝の黄金期と呼ばれる時代にあたる。833年に父がカリフとなり、父の死後は兄ワースィクが継いだ。若いころの事績は不明で、ワースィクが没する847年8月まで政治に関わらなかった。長男ムンタスィルは837年に生まれ、ほかにムウタミドやムワッファクらがいた。842年には巡礼団を率いて、宮廷人として兄の治世を過ごした。
ワースィクの死は突然で、後継者は指名されていなかった。宰相イブン・アッザイヤート、大法官イブン・アビー・ドゥアード、トルコ人将軍イータフやワスィーフらが集まって協議し、ワースィクの幼い子は見送られて、26歳のジャアファルがカリフに選ばれた。官僚たちは、ワースィクと同様に御しやすい傀儡になると期待したが、ムタワッキルは父が育てた文武官の一団を倒し、カリフの権威と独立を取り戻そうと決意していた。最初の標的は宰相イブン・アッザイヤートだった。かつてワースィクが弟に腹を立てた際、とりなしを頼みに訪れたムタワッキルを、宰相は待たせたうえ人前で嘲り、さらにカリフへ彼の服装や長髪を告げ口した。ワースィクは弟の髪を切らせ、その髪で顔を打たせた。ムタワッキルは後年、あれほどつらかったことはないと語ったという。847年9月22日、イータフを使って宰相を呼び出して軟禁し、財産を没収し、拷問のすえに死なせた。
兄の廃位や傀儡化を見たためか、王権の回復に全力を注いだ。カリフ位を神格化して極端に保守的な神学派と結び、自らを「現世における神の影」とまで称したと伝わる。伯父マアムーンが公認していたムータジラ派を異端として弾圧し、教義上の議論を禁じた。ミフナ(イスラーム学者への迫害)を終わらせ、アフマド・イブン・ハンバルを釈放したことでも知られる。一方、キリスト教徒やユダヤ教徒への差別を強め、シーア派にも極端な態度をとった。トルコ系の軍閥も抑えたので、アルメニア、アゼルバイジャン、シリア、エジプトなど各地で反乱が起こった。その状況をみて東ローマ帝国のミカエル3世がダミエッタに侵攻し、王朝は危機に陥った。
反乱と外敵は、トルコ系軍人のブガ・アッシャラービによって平定された。それでもトルコ人の力はいっそう強まり、ムタワッキルはそれを避けようとダマスカスに遷都した。のちにサーマッラーへ戻ったが、次男ムウタッズを偏愛し、長男ムンタスィルを冷遇した。弟に位を譲らされることを恐れたムンタスィルは、861年にトルコ系軍人と密約を結び、ムタワッキルは40歳で暗殺された。実行したのはトルコ人の近衛で、息子ムンタスィルが後ろ盾になったとされる。生前のムタワッキルは反乱の鎮圧や東ローマ帝国などとの戦いでトルコ系の政治家や奴隷兵に頼ったが、のちにトルコ系の総司令官を殺させてもいる。この頼り方がやがて自らに跳ね返り、人気も急速に落ちたとされる。暗殺は、「サーマッラーの無秩序」と呼ばれる内乱の時代の始まりとなった。治世の最盛期には、カリフ国の版図は最大に達したといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- トロワ司教プルデンティウス (861年)
- アルフラガヌス (861年)
- アブー・イーサー・ワッラーク (861年没)
同じ地域に関係する人物
- Umar Shaikh (1394年没)
- イブラーヒーム・イブン・アル=マフディー (839年没)
- ムウタミド (892年没)
- アブー・ウマル・アル=バグダーディー (2010年没)
- ムウタスィム (842年没)